想像とか空想とか妄想について

 例えばベッドに寝そべり、天井を眺めていたら黒い点に気づいたとする、
その時は風邪をひいており、それに近づき確認する気力も無い。
そして虫が苦手だったとすると、それは「未確認な不安領域」となる。
さて、
それに対して「やっぱり虫じゃなかろうか」「もし落ちてきたら」と思ってみよう、
すると「若干」前に進んでいるような動きが生ずる事がある。
でも大事なのは「未確定」な事にある、
既に知っている天井のシミであればそれは機能しない、何も動かない、
そして動く必要もない。

ここで反転させてみよう、さっきは「虫が苦手」な設定だったけど、
「虫が大好き」であったら機能は同じだけど、気持ちが逆だ。
「ゆっくりしていってね」の気持ちから動き出すかもしれない。
この2つの例をコマを分けて想像してみよう、
ハラハラ不安になってる人と、ほんわか楽しんでる人、使ってる力は同じ。
この認識作用は天井に限らず全てにおいて機能する。

そもそも複雑系なのでグラデーションほどのものではないけど、
対象を科学的に、ありのままに見る場合は感情を切らねばならない、
天井の虫の例だと「苦手」や「好き」が認識にプラスαを加えてしまっている。
苦手だったら「虫じゃない」と思えばいいかといったらそうでもなく、
それらのプロセス自体が天井の黒い点に対して集中を起こしている。
「虫かも....」で苦しんでる場合は手助けしたほうがいいかもしれないけど、
「虫かも♡」で楽しんでる場合は、別にそのままでいいんじゃないかと思う。
その後「嗚呼、虫じゃなかった...」でガッカリするかもしれないけど、
虫が苦手で苦しんでた人なら「虫じゃなかった♡」とホッとするだろう。
苦と楽、楽と苦の順番が違うだけ。

不安や安心は精神的な波長のようなもので他者にも影響してしまう、
おおかた妄想とラベリングされるのは虫が苦手で不安なイメージを作る場合だ、
後者の楽しんでる場合は空想といっていいだろう、誰も困らない。
「A」と思えばAの文字がイメージされ、「スイカ」と思えばスイカがイメージされる。
「妖怪マグロ人参」と言われてすぐイメージできる人はこの力が十分にある。
自動か意思か、何に使うか、それだけの話し。

これを書く前、双子座流星群を見ようと1時間寝そべり、
ついでに星をぼーっと見ていた、たまに人工衛星が横断していくが、
人工衛星に「あれは星だ」と思えば一時的に止まる、
しかし限度があり、数秒で違う位置に移動してしまう。
全て、だから何だという話だけど、戦争も差別もこの力の強弱の積み重ねだと感じる。

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