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創聖のアクエリオン、おもしろい。

全話観た、 負の念を拾う能力者を逆に助ける為に使ったり、 ハートチャクラが有り余る事を武器にしたり、 それぞれ個の能力をそのまま活かす事と不動のバランサー。 そしてシリアスとギャグを同時にやり切る恥じらいの無さは気持ちがいいものだ。 個人的に15話が好きで、人が倒れるというのは周りから見れば不安になる。 さっさと立たせようとしがちなんだけど、それをも肯定する姿勢こそ不動さんの本当の信頼があるようだ。 最初から歩ける人間なんていないしね、産まれたばかりは手も使うし、転ぶし、立ち上がる時はまた手も使うし、でもそれらの動きも結局は自らの意思なんだ。

因果を越える横断者

どんなに知識的であれ、観察的であれ、生死の気配を越えても完璧は無い。 ゼロイチのCPUの回路を越える者もずっと縦横無尽というわけではない。 錯誤を持ち、1+1=3/or ∞ の膜と膜の影響は受けてしまい、自らの境界を振る舞う。 粒であり波であり、明滅の中、自らの自動実態を見破り、しかし喜と共に現れる時、 黄昏の飛躍の赦しは訪れる、綱渡り故に、あの頃に戻りたい。 綱渡りは、戻れない虚しさを持つが、その共鳴になんか浸ってはいけないのだ。

エネルギーについて (2)

知識を完敗させるために様々な言語的な代用法の迷路があったと思う、 でもエネルギーというのは恐らく幼稚園で、心がまともな先生が言う最もシンプルな説明の方がそれを説明するには良かったのだと思う。 感受性と言語の相性は難しい、言語は本来の意味から外れ雑多になっている。 だから雑多になった後にシンプルなフレーズというのはすんなり通りにくくなる。 そしてエネルギーというのは、別に未来的でも神秘的でもない、普通の事だ。 しかし、味付けをしないにんじん🥕やきゅうり🥒は、本来の味を感じる事もできる。

血肉の苦痛と共に

歩む血反吐は麻酔では誤魔化せない、 嘔吐はマボロシの影、 本当の慈悲は苦しみがあるから、 瞬間瞬間は神秘ではない、 太陽と大気の中道の呼吸は苦しみの上での歓喜。 ただ、それを忘れる事ができ、大気に顔を出す生命に語る事、それは如何か? マボロシは悪意の嘘か? 私には答えなど無い、そんなものも嘘だ。 生命は感覚だ、それは苦しみだ、そして喜びだ、その繰り返しだ。

ありがとう神隠しの命綱

 昔、2回ほど一緒に仕事をしたプロデューサーがいる、 「全力で行ってきて良いよ」と許可してくれた、私は心から嬉しかったのだ。 私はただ生きてたってしょうがない、全てが楽しくないし嬉しくないのだ、 全てが虚無で、絶望で、血と死臭の中で息が出来ない、 だったら全力で血肉に身を投じればよかったのだ、それは自傷や自殺ではない、 寸止めがいけない、それは首が締まるし、誰の役にも立たない、 今は「責任」に縛られすぎている、でも本来、責任なんて誰も取れやしない、 "面白いじゃん、行ってこいや地獄に、まあなんかあったら引っ張るぜ。" そういった行為が私を救った。

ロマネスコ

全体性と連動しているチェーンの隙間から、さらに奥底に静かに赴けば、 おそらく神隠しの命綱にも僅かな手の意思は顕現するのかもしれない。 それはリコーダーや刺繍のように、様々な豊かさで間を埋める。 なくても現象は渦を巻き、あっても現象は変わらないように見える。 でもそれが重要なのではなく、その現象の中で移動が出来る、 その移動性というのは何か、意思だろう、意思は現象に縛られる。 でも縛られず、自由になる事もできる、全ては選択だったのだ。 どのみち、現象に左右される、意思が忘れられ、動きだけが存在してる。 意思無き残像回転は、まるで誰もいないプールに残った波紋のように、 しかし、それを観察する意識には意思を持つことができる。 なるほど、 それは木星の雲のように広大で、物語というもので記述するには大きすぎる。 しかし美しい。 たぶん収束からの解放は、トンネルに張り付いた澱の幽霊の憑依もある、 幽霊よ、どうか、どうか、 輪廻の旅に出た社の職人に、意思が無かったとは思わないでほしい、 彼らの仕事は素晴らしい、 精妙なるその念に哀悼の意を捧げる。 ありがとう、宇宙。

生きながら死にながら日常の非日常。

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(group inou - HALF) カモシカの跳躍の話がある、その通りだと思う、 成熟した中で生きていても、本領発揮や成長の瞬間が来ることは得難い。 だから、ある種、生きるか死ぬかの生存欲が点火する事で重要な事が抽出される。 しかしそれは火薬的であり、細胞も神経も消費してしまうので、常時それは厳しい。 だから、ハレ(非日常)とケ(日常)の行き来を制約させ、普段は日常を生き、 時に非日常により奥深くまで沈んだ無意識を照らすべく、ハレとケの接続が成される。 日常というのは、非日常の経験が元になってないといけない、どちらかだけでは成り立たない。私たちの社会は古来の伝統でうまくそれらの橋を持っていたけど、近年はそれらの回路はどうも遠くなっているように思う、分散化した密教が散らばってる。 でも、何であれ日常の中でも、一般的なブームとしての日常ではない世界の扉はいつでも開いてそこにある。 たとえば木、普段歩いていても、通学路でも、電車からでも、一瞬目に入るくらいだが、 時間がある時、5分でも1時間でも2時間でもじっと観察してみれば、いろんな事が見えてくるし、それは持ち帰ったどんぐりであれ、スーパーで買った蜜柑であれ、自分の手のひらであれ、自分の呼吸の感覚であれ、なんだっていい。 大事なのは過去の知識で対象を推察したり当て嵌めたりしない事だ。 「ありのまま」というフレーズはインフレーションし、言葉として機能してるか分からない。 最近はなんでも実態の無い言葉ばかりだ。 「本当のありのままのどんぐり」といっても馬鹿っぽい言葉になる。 しかしそれは死とか生とか言ってられない、そして、だから何だという事でもある。 私はエンタメの中でそれを感じるのが好きだ、「圧倒的に臭い」事この上ない。 パクチーも密教だろうか? 知るか。納豆も人によっては密教だ。