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Noteに日記を以降してます

個人的な日記や記録はテキストプラットフォームのNoteの方に以降してます、   https://note.com/rapparu こちらのブログ(blogger)はもうちょっと抽象的な物語形式にしたく、 個人的な雑記は別で欲しいなと思いました、 noteは今はあまりフォロー返したりとかは出来ない状態ではありますが、よしなに。 引き続きこちらでも更新はしていく予定ですが、今は物理的な筋力トレーニングの日々なのでしばらく文章はお休みする感じになるかもしれません。ではでは。

役割の外側について

会社だと忘年会、いわゆるハレな時、 家族だと一緒に共通して楽しめるスポーツやゲームをしてる時、などだろうか。 でもそれ以外の時間は役割があるし、役割が無かったら相対的な保管はない。 本質的に役割の外側は、誰も居ない虚空のようだけど、出発点でもある。 様々な場の組み合わせ次第ではユングの元型じゃないけど、どれかに成っていく。 2人だけだと自己/シャドウ、光/闇、男役/女役、の鏡になりやすい、 丁度良く広げ進めなければ「老賢人」まで出てこない。 そしてグレートマザー向いてないのに引き受けてる人もいる。 向いてない仮面もやっていくうちに慣れてくる事がある、 しかし出発点から程遠いと、役割だけになり、仮面だけの表れになりうる。 それで安定するならそれも良いし、それをむしろ楽しんでロールプレイする人もいる。 周りを心地よい流れにするために進んで、しかも楽しんでやってる菩薩サーファー、 ううむ、お賽銭箱どこですか。 この前久しぶりにMRIに入った、 瞑想の水平性とは違い、全てと関係無いような時空感覚だった、 現実的には患者と医者や機械との関係性の中であるけど、 精神的には、役割が今この瞬間完全に存在しない状態であると感じた、 仮面が存在しない安楽。でも何も無い。 10分ちょいだけど、それ以上だったら窮屈だろう。 前に手術した後、1ヶ月くらいベッドから動けず、 麻酔の影響か1分が1年みたいな妙な時空の歪みの中に居た時は、 役割がむしろあるだけでも有り難い、どんな役割だってやってみたいと思った。 やりたいけど機能できない役割と、やりたくないけど出来ちゃう役割、 その中間あたりの模索、楽しいのは苦しみがあるからで、 苦しんでいる時は誰かが楽しめている、それが楽しみと感じる事もある。 真夏の中華料理屋で、1階の厨房では汗かきながら中華鍋を振るう料理人がいる、 2階の席ではお客さんが冷房が効いてる中、涼しく美味しく料理を食べている。 それがその店主の喜びである事は、保管された組み合わせなのだ。

心的危機に論理は適応しない事もある

 では欲を満たせば癒やしがあるかというと、よく分からない、 ドツボにハマっていくだけな事も多い、 個人的な癒やしを越えた全体的な因果と、その上でより良くしていく可能性を確信し、 反作用なき階段が見えた時は、様々な事を乗り越える事ができる力も出る時もある。 寒い冬、温泉は温かい、一旦は身体は温まる、 でもいつかは出なければならない、 けど凍えている時は、温まる事で癒やしを得られる、 本当はその間で、自ら発熱できる力がある事を見つけられたらいいんだけど。 身体そのものが自由に歩ける温泉のように。

集合的無意識について

今の生命宇宙、地球に限定して感じてみれば、 純粋からするとだいぶ奇妙であり、終局とも言えないバグとも見受けられる、 2001年宇宙の旅で言えば、HALとの勝敗とかいう次元ですらも無さそうだ。 地獄の存在意義があるとすれば、「ここには意味がない」と分かる材料しかない。 続けるのであれば、まだマシな段階があると魂レベルでの理解と納得を得られる。 しかし全ては生命の原因と結果であり、それ自体の賛美や否定といった地点も終わってる。 未来はパラレルであって、今の業から未来を断定する占いは、その占う者の割愛が介入してしまう。 しかし放置すれば無意識の泥として顕現するマリオネットになるならば、 まだ明瞭な占いによって善き使命体になった方が良いようにも思う。 無意識の世界の中に、波の影響を受けず冷静に観察すれば、 もはや何をしても、特に巻き戻ったり、善き流れに変わる期待も出来ないだろう。 しかし、その中で一向に慈悲を体現し、灯台となり、 そして出口を案内する人達を見てきた、 本当に頭が上がらない。ありがとうという気持ちで一杯だ。 明かりを他者に要求しても、火は灯らない、 ロウソクが消えている場合、誰かの火が必要になる、 自分から火を起こすしかない、これはラジャス、ピッタの比喩ではなく、 「意識的」である事を言ってる。 ヨガは身体を意識的にしていく、意識化すればコントロールができる、 瞑想の身体の観察も同じ流れだと感じるが、どのみち感じれるのは身体しかない、 聞こえてくる音も自分の身体であり、見える光も自分の身体だ、 その先は、善き師が居てこそだろうと思う。 集合的無意識は、シャレにならないし甘くない。

瞑想とか、溢れた気力の注意点とか。

要するに、グラデーションあれど無意識が意識化する事だ、 仏教では無意識的である状態を「無明」とも言いましょう。 深い瞑想でも、照らされる部分、領域には大小あり、 人によっては何も問題なく日常と共存するだろうけど、 何か強い後悔とか持ってる場合に懺悔の影になるやもしれない。 人によるとしか言えない。 懺悔の念は客体による受容を求める、 一昔前なら神に対してやっていただろうけど、 人間信仰の今は人間相手が良いだろう、 AIはやめておけ、自閉的な道だ。 近くにちゃんとしたお坊さんがいる寺があるとか、 自我が柔らかい先生がいる心療所や、 あまり全てを気にしてない友達、 商店街に普通にいる賢者、 または森や川や海など、良き自然環境。 しかし、自我が柔らかく、あまり全てを気にしない人に、影は近づきにくい。 「もっと気にしろや」を求めるからだ。 むしろ自我が薄い人は、自然に近い存在なのだ。 影は同一化を求めるので、似たような人と集合しやすい。 しかし自己嫌悪性を持つ場合、鏡とうまくやれないので対消滅が定説だ。 その中でもしっかりコミュニケーションを続ければ、アオサギのように解に近づく。 さて、滞留が減り、元気になったらなったで、本当にそうかな? という部分もあるだろう、しっかりと棄てきれない自我を保つ場合、 または照らされたと思い込んでるのがほんの一部に過ぎないなど、 やはり未完了を保持しているため、反作用を持つ気持ちになるかもしれない。 とはいえ、完璧な風となった人というのも珍しい。 意外と其々の周囲にもいるんだけどね、「つまんない」だろう。 つまんなくてOK、気が詰まってないからさ。

心身健康の全体性について

これをやったら良くなるとか、これを食べたら健康になるとか、 それら全て一部ではあるけど、例えば健康的な食事をしてたとしても、 ずっと椅子から動かないとか、イライラしてたり不安になってたりしてても仕方ない。 もちろん、全体的に善きバランスである事が最善だが、 まだカップラーメンやファーストフードを食べてても破茶滅茶に心が元気で動き回り、 現実の人々と明るくコミュニケーションを取り、 自我の妄想を越えた善き気づきで周囲に元気を与えてる方が大事であろう。 ある精神科医の先生はあちこち動き回り広く仕事と活動をされておられるが、 その先生は溜まったストレスをお酒やタバコを嗜む事でバランスを取っている。 完璧を目指し挫折するよりも、まずベターであり、それなりに活発で元気な事が大事だ。 いくら医学や科学的な知識を左脳に貯めようが、実践が無かったらただの記憶のデータだ。 身体を維持してるのは心だ、心が柔軟で元気でさえあれば冬であれ夏であれ動きやすい。 このサプリを飲んだり、この健康法をやってたとしても、 100あるパズルピースの2つだけキラキラと綺麗で、残り98個が汚れてる事だってある。 机にかじりつきであろうが、超集中状態で楽しく喜びで心が回転してれば、 多少猫背になろうがいくらかカバーできよう。 結局はどう生きるか、何をするのか、何を大事し、其々が満足するかだ。 さて、ここから個人的な話になるが、ワタシは数年前はロードバイクに乗っていた、 風邪やインフルエンザとも無縁で、冬でも身体も心も元気だった、 内臓の手術はしたが、それは生まれつきの疾患が発動したもので、 あと事前の連続的なストレスも凄かった、でも考え直す期間として大事だった。 パンデミックもあり家にいる事が多くなり、自転車の習慣も消えた、 同時に、あきらかに免疫や精神も衰退し始めたのを感じたので、 手軽に初められるものとしてヨガと太極拳を選んでみた、 ヨガを真面目にやってみると身体のあらゆる部分が固くなってる事も分かったし、 相当に全身の筋肉、神経、そして心を使う。 心の動きと身体の動きが全然噛み合っておらず、これまで無意識的であった事も分かった。 ヨガとは少し離れるが、タイの僧侶、ルアンポー・ティアン師が初められた 「チャルーン・サティ」というヴィパッサナー瞑想法がある、 手や腕の動きを使うシンプルなものだが、雑念が湧...

神が宿らない世界で

純粋な安穏や、些細な喜怒哀楽であれ、 物事という時系列も始まらず、そして終わらず、 鎖化していない定説の輪の周囲に佇めば、瞬間での限りない自由が存在した。 それらは無意識的であれ、余計な知識が無かったが故に記憶や知識を組み合わせない。 素粒子は未来を確定せず、確定せぬまま身軽であれば、その時々に智慧も働く。 では仏教で説かれる「像法」を、原因と結果を確定的に思案した状態で建築的に歩めど、 的を射ってから弓を放つのでない限り、結果は常に予想通りには行かない。 この時代、智慧が宿ろうにも最初から拒絶してる状態が続いてるように見受けられる。 身体が乾いてる、雨が降る、雨を浴びれば潤うが、傘をさす。 ”こうすればこうなる”の範囲は、恐らく一般的には些細でしかなく、忘れ去られていく。 「日本昔ばなし」など、童話の構造は、 最初に何も考えずに困っている生命に善行をした人がお返しを享受する、 そして「いじわるおじいさん、いじわるおばあさん」的な人物がそれを真似る(像法)、 あまりに作為的である為に、そして事足りているため、そこは隙間が存在しない。 そして最初から「見返り」を自我で組み立てていた為に、叶わねば逆上する。 それらのプロセスが「計画的で確定的」であり、クォンタムの隙間とは無縁だ。 ある湖の周囲に動物達が暮らしている森で、換気で湖の水が減ればみんな困る、 その時に梵天が雨を降らせば、みんな助かるし感謝して梵天に社(やしろ)を造るかもしれない。 しかし十分に雨も降っている時に、その湖に余計に雨を振らせては氾濫してしまい、 動物達も困る事になるかもしれない、むしろ「疫神」として鎮魂するための社になる。 智慧は、その時々の状況に応じて「現実的」に現れ、そして必要な組み合わせだ。 そして故意に大きく現象の流れを変えてしまい、湖に雨が降らなくなってしまってから、 いくら社を建てて雨乞いをした所で、因果は直ぐには調伏できない。 手を加えなければ純粋な因果を結ぶ現象に関しては、妄想ではなく自然法則だ。 魔術を経由しようが、現実的で(真に)科学的な理解であろうが、 最終的に、同時に始まりの地の事を指していて、 そして体得する道は今からだって遅くはない。