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唐辛子は枯れたと思った

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唐辛子の植木鉢を置いた場所や、水の頻度のバランスが成っておらず、 実も萎み、葉が枯れて落ちていった。 置く場所を変えた、太陽光をちゃんと浴びれる場所だ。 暫く経ち、よく観ると、新しく芽が出てきた。

等価交換、因果法則。

一旦ここを受け入れるかどうかのネクストステップなんだね、 鋼の錬金術師でも扉現れちゃうわけでしょ、自分の心なのにね、 外部の世界ばっかり観てきし、それはそれで大事なんですが、 やっぱりバランスだよなぁ、ずっと扉の境界に居たまま生活したらちょっとね。

創聖のアクエリオン、おもしろい。

全話観た、 負の念を拾う能力者を逆に助ける為に使ったり、 ハートチャクラが有り余る事を武器にしたり、 それぞれ個の能力をそのまま活かす事と不動のバランサー。 そしてシリアスとギャグを同時にやり切る恥じらいの無さは気持ちがいいものだ。 個人的に15話が好きで、人が倒れるというのは周りから見れば不安になる。 さっさと立たせようとしがちなんだけど、それをも肯定する姿勢こそ不動さんの本当の信頼があるようだ。 最初から歩ける人間なんていないしね、産まれたばかりは手も使うし、転ぶし、立ち上がる時はまた手も使うし、でもそれらの動きも結局は自らの意思なんだ。

因果を越える横断者

どんなに知識的であれ、観察的であれ、生死の気配を越えても完璧は無い。 ゼロイチのCPUの回路を越える者もずっと縦横無尽というわけではない。 錯誤を持ち、1+1=3/or ∞ の膜と膜の影響は受けてしまい、自らの境界を振る舞う。 粒であり波であり、明滅の中、自らの自動実態を見破り、しかし喜と共に現れる時、 黄昏の飛躍の赦しは訪れる、綱渡り故に、あの頃に戻りたい。 綱渡りは、戻れない虚しさを持つが、その共鳴になんか浸ってはいけないのだ。

エネルギーについて (2)

知識を完敗させるために様々な言語的な代用法の迷路があったと思う、 でもエネルギーというのは恐らく幼稚園で、心がまともな先生が言う最もシンプルな説明の方がそれを説明するには良かったのだと思う。 感受性と言語の相性は難しい、言語は本来の意味から外れ雑多になっている。 だから雑多になった後にシンプルなフレーズというのはすんなり通りにくくなる。 そしてエネルギーというのは、別に未来的でも神秘的でもない、普通の事だ。 しかし、味付けをしないにんじん🥕やきゅうり🥒は、本来の味を感じる事もできる。

血肉の苦痛と共に

歩む血反吐は麻酔では誤魔化せない、 嘔吐はマボロシの影、 本当の慈悲は苦しみがあるから、 瞬間瞬間は神秘ではない、 太陽と大気の中道の呼吸は苦しみの上での歓喜。 ただ、それを忘れる事ができ、大気に顔を出す生命に語る事、それは如何か? マボロシは悪意の嘘か? 私には答えなど無い、そんなものも嘘だ。 生命は感覚だ、それは苦しみだ、そして喜びだ、その繰り返しだ。

ありがとう神隠しの命綱

 昔、2回ほど一緒に仕事をしたプロデューサーがいる、 「全力で行ってきて良いよ」と許可してくれた、私は心から嬉しかったのだ。 私はただ生きてたってしょうがない、全てが楽しくないし嬉しくないのだ、 全てが虚無で、絶望で、血と死臭の中で息が出来ない、 だったら全力で血肉に身を投じればよかったのだ、それは自傷や自殺ではない、 寸止めがいけない、それは首が締まるし、誰の役にも立たない、 今は「責任」に縛られすぎている、でも本来、責任なんて誰も取れやしない、 "面白いじゃん、行ってこいや地獄に、まあなんかあったら引っ張るぜ。" そういった行為が私を救った。