投稿

ありがとう神隠しの命綱

 昔、2回ほど一緒に仕事をしたプロデューサーがいる、 「全力で行ってきて良いよ」と許可してくれた、私は心から嬉しかったのだ。 私はただ生きてたってしょうがない、全てが楽しくないし嬉しくないのだ、 全てが虚無で、絶望で、血と死臭の中で息が出来ない、 だったら全力で血肉に身を投じればよかったのだ、それは自傷や自殺ではない、 寸止めがいけない、それは首が締まるし、誰の役にも立たない、 今は「責任」に縛られすぎている、でも本来、責任なんて誰も取れやしない、 "面白いじゃん、行ってこいや地獄に、まあなんかあったら引っ張るぜ。" そういった行為が私を救った。

ロマネスコ

全体性と連動しているチェーンの隙間から、さらに奥底に静かに赴けば、 おそらく神隠しの命綱にも僅かな手の意思は顕現するのかもしれない。 それはリコーダーや刺繍のように、様々な豊かさで間を埋める。 なくても現象は渦を巻き、あっても現象は変わらないように見える。 でもそれが重要なのではなく、その現象の中で移動が出来る、 その移動性というのは何か、意思だろう、意思は現象に縛られる。 でも縛られず、自由になる事もできる、全ては選択だったのだ。 どのみち、現象に左右される、意思が忘れられ、動きだけが存在してる。 意思無き残像回転は、まるで誰もいないプールに残った波紋のように、 しかし、それを観察する意識には意思を持つことができる。 なるほど、 それは木星の雲のように広大で、物語というもので記述するには大きすぎる。 しかし美しい。 たぶん収束からの解放は、トンネルに張り付いた澱の幽霊の憑依もある、 幽霊よ、どうか、どうか、 輪廻の旅に出た社の職人に、意思が無かったとは思わないでほしい、 彼らの仕事は素晴らしい、 精妙なるその念に哀悼の意を捧げる。 ありがとう、宇宙。

生きながら死にながら日常の非日常。

イメージ
(group inou - HALF) カモシカの跳躍の話がある、その通りだと思う、 成熟した中で生きていても、本領発揮や成長の瞬間が来ることは得難い。 だから、ある種、生きるか死ぬかの生存欲が点火する事で重要な事が抽出される。 しかしそれは火薬的であり、細胞も神経も消費してしまうので、常時それは厳しい。 だから、ハレ(非日常)とケ(日常)の行き来を制約させ、普段は日常を生き、 時に非日常により奥深くまで沈んだ無意識を照らすべく、ハレとケの接続が成される。 日常というのは、非日常の経験が元になってないといけない、どちらかだけでは成り立たない。私たちの社会は古来の伝統でうまくそれらの橋を持っていたけど、近年はそれらの回路はどうも遠くなっているように思う、分散化した密教が散らばってる。 でも、何であれ日常の中でも、一般的なブームとしての日常ではない世界の扉はいつでも開いてそこにある。 たとえば木、普段歩いていても、通学路でも、電車からでも、一瞬目に入るくらいだが、 時間がある時、5分でも1時間でも2時間でもじっと観察してみれば、いろんな事が見えてくるし、それは持ち帰ったどんぐりであれ、スーパーで買った蜜柑であれ、自分の手のひらであれ、自分の呼吸の感覚であれ、なんだっていい。 大事なのは過去の知識で対象を推察したり当て嵌めたりしない事だ。 「ありのまま」というフレーズはインフレーションし、言葉として機能してるか分からない。 最近はなんでも実態の無い言葉ばかりだ。 「本当のありのままのどんぐり」といっても馬鹿っぽい言葉になる。 しかしそれは死とか生とか言ってられない、そして、だから何だという事でもある。 私はエンタメの中でそれを感じるのが好きだ、「圧倒的に臭い」事この上ない。 パクチーも密教だろうか? 知るか。納豆も人によっては密教だ。

瞑想について (終)

私は瞑想を上座部仏教の方々から学びました。最初に瞑想したのは修学旅行で山奥の禅寺での座禅でしたが、蚊に血を吸われる観察で終わってしまったので、家に持ち帰って何時間も続けたらあわわと(意味から離れる恐怖)、焦り検索してたらちょっと違う情報へ流れてしまって結果ズレてしまい、それ以降は瞑想はしてなかったのでした。 コロナ禍近辺で心のガラガラパシャンの時に、通りすがりの方に僧侶を紹介してもらい、そこから流れて ヴィパッサナー瞑想を学びました。 例えば樹という現象が成り立つ循環システムは、単体では成り立たず全体性があります、言語習得前の子どもの時は、それら現象と一体だったかというと、殆ど私は無意識的ではありました。 何を幸せとするか人によって違いますし、私にとって瞑想は楽しいものじゃないです、 明後日の自己実現願望は砕かれる事もありますが、しかし振り出しや原点というのは確実なものとも言えます。 強制的な身体と心の分離体験というのは、手術をした時や、川で溺れた時も体験した事を思い出したりしました、でも生命維持的危機がなくても、ただ歩いたり、座って呼吸などの観察のほうが良いとは思います。色んな体験があっても、結局は等身大の自己というのに戻り、日常で暮らしていく事は変わらないです。 余談ですが、ガラガラパシャンを半分救ったのはサン=テグジュペリの「星の王子さま」です。 たぶんこの栞は刻印されたのだと感じてます。 タイトルに(終)と付けたのは、私は膨大に文学的語彙が認識に混ざっているので、瞑想や科学世界を正しく記述する事は難しいのだと思います、なのでその道を護ってる方々を尊敬してます。 私はそれらを学びながらも、私の歩行できる範囲で背中に纏う混沌と共に出来る事を模索していくのだと思います。 引き続き、この星の安寧を念じます。

💧

イメージ

「アメリと雨の物語」が良かった。(紙垂:ネタバレ有)

イメージ
(まだ観てない場合において、他人の感想など読まないほうがいいと思います)  - 3/20(金・祝)公開『アメリと雨の物語』日本語吹替版予告編 心と自然の共時発生条件、タイミング、文法、全てが地に足が付いてる。 演出そのものが自然、見事過ぎて驚く。 個人的にカシマさんという人物の登場から、どう彼女の硬まりを扱うか付箋が発生してた。 アメリの住む家の側に水池があるが、カシマさんの家の庭は枯山水だ、 石(砂利)で水を表現されたもので、彼女の心の硬直化としてもよく表現されてる。 極端な対立からの衝撃的な円環という方程式も使われていない。 即時なる円化願望は、理想的な夢物語であり、より溝(硬さ)を作るだけとなる、論理的に考えれば、そして子供の眼差しから見ればそれは理解も共感も出来ないし、そして共感などする必要すらない。 ケ的な日常世界において、その即時性の期待は難しいものだ、 戦争で家族を失うという、同・境遇経験のキーを持つ者の勇気が必要になる。 そしてその勇気の閃光は、仮面の防壁があろうが、じわじわと心に影響を及ぼす。 分かりやすい表現形態で顕現せずとも、それは確実に共存に向かう。

ミラクルではなく堅実に

 タイトル通り。