生命の交換と責任。(Re:1年半前の記事への追記)
https://rapparu.blogspot.com/2022/12/blog-post.html
1年と半年以上前の日記では、生きる事の因果に耐えられなくなっていたと思う、
まず、ただ散歩する事も不意であれ虫を踏んでしまい、生命を犠牲にする、
植物と動物で境界を引く事も本来同じ生命として無茶な文節に感じる部分もある、
菜食であろうがそのプロセスで微生物含めた膨大な生命を頂いてしまってる、
では家に居てネットで食料を注文しようとしても、
それを運ぶトラックが一旦どれほどの虫を轢き殺してしまっているのだろうか、
殺す役割を他人におっ被せてるだけじゃなかろうか、
キリコさん「殺すのはオレの仕事さ」(引: 君たちはどう生きるか)
生きるという事、そしてそのシステム自体に対して些かなる疑問も感じる、
しかしその疑問自体が自己矛盾を発生させるし、この手の議論も何億と回転しただろう、
その疑の解に矛盾なく答えてるのは初期仏典だと様々な破片を拾ってきた挙げ句思った、
他の生命によって「完全なる不意」か「殺意の回転」であるなら、
私がアリやダンゴムシならニンゲンには前者を希望したい所、
ジャイナ教のように徹底するのも良いけど、たまに草むらを走り回るのも大事じゃないか。
とにかく、あり得ない数の生命のサポートで今もこうして生きてるし、
そのサポートに返礼も出来てない罪悪感が心の重力崩壊に関与していると感じる、
精神的な曼荼羅で言うとかなり下層かと思ったけど、まだ浅瀬なんじゃないかと思う、
それで言ったら戦争とかはもうお話にならないけど、ふわふわするので「足場」に絞る、
この前、中国から来た先生が長年やってる整体院に行ってみた、
ずっと机仕事で姿勢がエビだったのもあるが、とても良かった、
術のみでなく先生の話が滑らかで面白かったのだ、そして振る舞いにも軸がある、
その先生の「身体」自体が歩んできた歴史を感じた、
知らない単語も多かったけどほとんどインド哲学で置き換えて理解ができる、
口だけの文学的フレーズではなく、身体の実践、その細胞群があって言葉が宿っている、
身体内部の川の流れ(血流、神経)を精妙に重視している事に感動したのだ、
菌を含め膨大な微生物の集合体として身体を「小宇宙」という単語を使われてた、
でもそれは普通の事のハズなんだけど、どこかでアタマだけが忘れてしまっていたのだ、
たぶん、物凄く小さい詰まりで進めなくなっていた過去があったので引っ張りたかった、
生命の栄養を吸い続けている以上、たぶんやらなければならない事がある、
スマナサーラ長老の説法では「慈しみの気持ちを持つだけで他の動植物に安心を与える」
と話されていたけど、そうなんだろうと思う、リラックスしてる時ほど鳥が近寄ってくる、
子供の頃はアヒルの群衆の中にいてもアヒルの一部になれていた、
彼らも特別扱いしてこない、その程度であれ大事な「実践」なんだと思う、
言葉という風船の糸が切れて浮いて成層圏まで行っているように感じる事が多い、
こういったバラバラな風船の回収作業も切断されカビの生えた身体の一部の再統合。
この世界の生命システム自体に手放しで礼賛や賛美が難しい、美しいけどね、
「お互いしょうがない」と言いたいけど、生きる以上はやっぱり責任あるなぁと感じます。
「植物と動物で境界を引く事も本来同じ生命として無茶な文節に感じる部分もある、」
返信削除I've thought about this a lot myself and come to the same conclusions.