エネルギーについて

 ちょこちょこと人と会う機会が増えて、同時に観察もしていると、
人によって様々に精神的な力が違う、電球や恒星の比喩にすると分かりやすいけど、
とにかく腹の底から力があり、そしてそれを制御して他者の為に使ってる人もいて、
大抵、そういう人は会社でも人を束ねたり周りの感情コントロールに気を使う。

そもそも根底のそのエネルギーは、趣味から得てる人もいれば、食から得てる人、
自発的に沸かない為に活発で元気な友達の近くにいる事でそれを得ている人、
信念体系、自我のアルゴリズムで発電している人もいる。
その逆に、信念体系のアルゴリズムの種類によってコンセントが抜けている事もある。
河童の頭の皿の上に別な何かを置くことで、水が溜まらなくなるような感じだ。
そして仮想上のアルゴリズムで皿を無限に増やしてる人もいる。
というか、何を思えど、どのみち信念体系のマトリョーシカに組み込まれる。

全てが机上の空論である事を知っている自在な視野を持つ人には関係ない話だけど。
とはいえ自在のように見える素人が、他者の発電機(信念体系)をスポッと抜いてしまい、
ガラガラパシャンで前より酷くなってるケースもよくある。
無為の押し付けがうまく行くパターンはちゃんと信頼関係や尊敬がある前提で、
論理的に、科学的に正しいからといってうまくいくとは限らない。
発電効率が悪くても、そのアルゴリズムに愛着を持つ場合、
内発的、自発的、主体的にそれらを変える方が、強引による失敗よりもスムーズな時もある。
マトリックスという映画でも、「やっぱり前の世界の方が良いわ」という人物もいる。
矢を抜くような時は、直截ではなく自然排出されるような何かがあるはずだ、
矢を抜くはずがそのプロセスそのものが第二の矢となっては本末転倒だ。
そして、あるロール下においては、その時はその編成である事でしかしょうがない時もある。
その場合は、いずれ出口がある事を客観する何かヒントで十分であろう。

その瞬間のやり方が定言命法化され全体適応されてしまうと、
回路でも神経でも血管でも、ここではこっちに曲がって栄養を送らなくてはならない時も、
決まった方向だけに栄養が行き、栄養が不足してる部分が壊死してしまう。
物質的には身体の姿勢の癖で、足が痺れたりしても感覚で足を組み替えたりして、
血流のバランスを取りやすいけど、心、特に無意識はどうなってるかは分かりづらい。
無理に知ろうとして無意識の海底にドボンと潜る事も、
結局VRヘッドセット被ったまま潜ってはカオスがよりカオスになってしまうし。

しかし、色々書いてても思うのは、ロール上のアルゴリズムの仮面に支配されるケースだ。
楽しい場合はいいんだけど、全くもって嫌々それを操縦せねばならなくなってる時もある。
先ほど書いた「その時はその編成である事でしかしょうがない時」などなど、
本来湧き出るエネルギーが遮断され、燦々と輝く太陽光もあまり感じれなくなる。
それでも強引に、炎天下で散歩してみると結構元気を貰ったりもする。
文学的にセロトニンを自家製生できない時も、太陽光は常に無料なので。

ここで言うロール(役割)上のアルゴリズムは人格というキグルミで、
長くなりそうなので整理しつつ、また次回とします。

明けましておめでとうございました。

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