生きながら死にながら日常の非日常。
(group inou - HALF)
カモシカの跳躍の話がある、その通りだと思う、
成熟した中で生きていても、本領発揮や成長の瞬間が来ることは得難い。
だから、ある種、生きるか死ぬかの生存欲が点火する事で重要な事が抽出される。
しかしそれは火薬的であり、細胞も神経も消費してしまうので、常時それは厳しい。
だから、ハレ(非日常)とケ(日常)の行き来を制約させ、普段は日常を生き、
時に非日常により奥深くまで沈んだ無意識を照らすべく、ハレとケの接続が成される。
日常というのは、非日常の経験が元になってないといけない、どちらかだけでは成り立たない。私たちの社会は古来の伝統でうまくそれらの橋を持っていたけど、近年はそれらの回路はどうも遠くなっているように思う、分散化した密教が散らばってる。
でも、何であれ日常の中でも、一般的なブームとしての日常ではない世界の扉はいつでも開いてそこにある。
たとえば木、普段歩いていても、通学路でも、電車からでも、一瞬目に入るくらいだが、
時間がある時、5分でも1時間でも2時間でもじっと観察してみれば、いろんな事が見えてくるし、それは持ち帰ったどんぐりであれ、スーパーで買った蜜柑であれ、自分の手のひらであれ、自分の呼吸の感覚であれ、なんだっていい。
大事なのは過去の知識で対象を推察したり当て嵌めたりしない事だ。
「ありのまま」というフレーズはインフレーションし、言葉として機能してるか分からない。
最近はなんでも実態の無い言葉ばかりだ。
「本当のありのままのどんぐり」といっても馬鹿っぽい言葉になる。
しかしそれは死とか生とか言ってられない、そして、だから何だという事でもある。
私はエンタメの中でそれを感じるのが好きだ、「圧倒的に臭い」事この上ない。
パクチーも密教だろうか? 知るか。納豆も人によっては密教だ。