境界線が曖昧になった世界で。

大・ロマン主義時代への揺り戻しへの予感を元に(そうはならずバランス取られると思うけど)、

あえて境界線を重んじる道を大事にしようと思い、自然科学の知識を脳に叩き込んでます、

古来、原因不明であるけど分からないから妖怪のせいにして危険性への回避と折り合いを行っていたが、今は妖怪はいないとしても、科学的知見さえなければ危険回避も難しい、

(例えば過労、不眠、低酸素状態で脳でどういった物質が分泌されてるか等)

妖怪も科学も失えば、あるのは今ある限られた記憶の解釈の幅でしか無い、

他者の、分からない部分、隠してる心の暗闇は決して覗く事は出来ません、

その闇に勝手に解釈を行うのはとても危険極まりない事だと思い、時に振り返り、先人たちが残した学問を謙虚に学ぶという姿勢も大事であると思うようになりました。

私は不条理や哀しみや怒りを、闇の解釈(物語)で折り合いをつけていたのですが、

それは心の世界の膜の中の話です、しかし現実のほうがキツくなってくるとその膜が曖昧になり、心の世界が現実へと侵食してしまいます、

普段、本当の気持ちを踏み潰し、現実では役者を演じ、調和を行っているのですが、その踏み潰してきた方も同様に実態であり、そして心の世界を作り出します。

そしてそれらは普段あまり現実へ顔を出す事は無く、しかしそれらの闇によって我々は共存できているとも思います、私にとってその闇こそ「橋」だと感じる事が出来る、

そしてその闇を通じ「縁」を得て、人と、世界との接触が出来ていました、今こうして辛うじてトボトボと生きてられるのも「縁」のお陰で、本当に感謝してます。

SNSなどでは「喉」を使わず指を使うので、比較的無意識が混ざりやすい場所で、個人的には「魂の混浴」に近いと感じてます、自分と他人の無意識の境界線が入り交じる空間、

心の膜を解くというのは大事だし良いことなんですが、同時に、ほとんど心が裸になってる状態であり、防御すらも解いてる状態で、そのままシャンパンタワーのように何か注がれている状態になってしまいます、(を、前頭葉で理解したのでSNSからは少し距離置いてました)。

「自分は違うと思う」という所から自分の個性化が始まるが、そのフィルタを失ってる間は魂の合意作業をスキップしてしまう、個人の領域が曖昧になり、責任も分散化される、

その合意作業の精査を一つずつ行った履歴を脳に残したいと思い、まずは境界線を大事にしようと思いました、他人のテリトリーの境界の尊重。

現実という暗闇で何を灯りに歩くかは、共通言語を科学の知識を元に、そしてそれでも見えぬ部分は「分からないままにしておく」、この分からないままのモヤモヤを心の中で宿題として残し続ける事が境界線の尊重になると思い、これらをベースとしていく道が大事だと思いました、(自分の場合、それらの維持は精神力を必要とする)。

境界線はバリケードや壁ではなく、敬意です、橋さえあればいいのですが、橋が次々に落とされていく時代においては「縁」がそれらを繋ぎ止めると思います。

勿論、私も自分自身で橋を落としてきたのだと反省してます、ズケズケと土足で他人のテリトリーを歩けば、警戒的になっていって当然です、その礼の無さの根源も、自分も幼少期から現在、ズケズケと土足で踏み込まれた経験から鏡のようになってしまったのだと思います。

現実世界と心的世界の一致は、もっと時間とプロセスが必要であると思いました、人によってその心的世界は違うのですから、様々な背景を無視して一度に混ざったら、当然シッチャカメッチャカになってしまいます、シッチャカメッチャカでも良いとしても、「合意作業」のプロセスは尊重しなければならない、

こう思うようになったのは、自分の賢しらな自我に、付いてこない自己を感じたからです、勝手に突き進む自分に対して左脳の処理が追いつかなくなり、負荷がかかり情動記憶の処理を無視し、背中に背負ってる物の重さに押しつぶされてしまうと感じたためです、

まずは自分が抱えてる情動記憶をただの記憶に変換していこうと思い、記憶と向き合う事を初めたのですが、「相手にも事情(蓄積した闇)があるかもしれない」という視点が抜け落ちていた事や、酷い事をされた事も、その相手の置かれている「状況」がそれらを生み、個人を追求したって本質が出てこない事に気づきました、特に親というのはあらゆる過酷な状況を自らフィルタ(変わり身)となってくれていたのですから。

そんな事を言えば、全ては空であり、全てが仕方がない、となってしまいますが、そういった視点を持つ自分を心の中で育てておけば、肝心な時に大事な役割(橋)になると思いました、そしてその自己解釈も闇(物語)であるかもしれませんが。

そして胆嚢摘出後からどうも、境界線で発生した摩擦による疲れの蓄積がうまくいかない、だったら摩擦そのものを減らそうと考えました、つまり「過度な自我」の解体、そのための情動記憶の処理でもありました。

やりたい事は前の記事でも書いた通り存在してますし、その為にもまずは心を安定させるための軸の固定と不必要な摩擦の解消、それをここ数ヶ月行っておりました。

話は長くなってしまいましたが、最後まで読んでくれてありがとうございます。

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