泥の中の花
自分のエゴを優先し、周囲の「あるべき」期待から踏み外し、踏みにじり、
自由を目指そうとしたプロセスで、もうずっと思い続けている、
こんな事をしてまで目指すべき理想なのだろうか、
抽象的に言うと、この枝の分岐の先に花は咲かないのではないかと思う。
散々夢で、泥の中を探し求めて出てきたのは、そういった「視点」であり、
筋道や道理や論理や正しさを越えて、一つ一つ、一応でもちゃんと向き合うという姿勢が圧倒的に足りなかったのだと思った。
ゴールが重要なのではなくプロセスの描き方が大事だと、様々な物語を読み子供の頃はそう思っていたはずだが、プロセスの中にいると、まず根本的に軸になる哲学も公理も無くなる。
そして扁桃体に事の舞台は移され、語彙を失い、説明もせず、橋も作らずに分離が行われる、
アキラでいう朽ち果てたオリンピック会場の玉座に座ってるような気分になった。
個の人生の平均的理想経路のパターンのマテリアルは少なく、
物語作りに原初的素材である古事記を引用するのと同じくらいに、人生のパターンの素材は少ない。
そしてそれぞれ、同じヒトという概念下の中で同じように見えて、少しであれみんな違っているだけの話で、その場合は単にすれ違いが起きた時に「説明」を誠実にすればよかったのだ。
それは自分の形に相手を変えるのではなく、相手の形に自分を変えるのでもない、どちらの形も変えずに、そうでなければならないという事を互いが話して聞いて、
その後どう判断するかは各々が決めればよかったと、今からだと思う。
私がやってきたのは、攻撃から守る為に作り上げた自我そのものが、自他ともに脅威になったのだ。
ちなみにこのブログはだいたいの記事が、余分な自我を分解して出てきた破片を敷き詰めているようなものです、破片の無毒化(非・呪詛化)はされてると思います。
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