夏越



ここ半年の話


■再生

生活も仕事も安定してきて、もう半年も過ぎる頃なので振り返る。

冬に心が破裂してしぼんだ風船のような状態になり、トボトボと仕事をしていた、

何も感じないくらい意欲が落ちていたが、買って積んでいた自然科学系の本をとりあえず読みまくった、

動物や魚や植物やDNAや脳など、「解釈」を使わなくても読める情報で、とても楽しい。

自然科学に行く前はひたすら哲学の本を読んでいた、

でもそれだけでは身体として現実とリンクする回路が十分ではなかった。

しかし、デボン紀とかは楽しいのだが、だんだん惑星や太陽系を越えて銀河というレベルになっていくと、

もはや何もかもがどうでもよくなってくる。

でもこの「どうでもいい」という状態はネガティブでもなく、心がだらんとリラックスしてる状態だった、

老子的な無の調和かもしれないけど。

というわけで地に足つけるという意味で自然科学は大変よかった。


■解釈の世界

「解釈を使う世界」は今も昔も変わらないが、いろいろな学問を学んでいくうちに、

ただ複雑過ぎてどうにも解が出てこなくなる、

「知っていくうちにより分からなくなる感覚」の実績解除のトロフィーの瞬間。

そしてその意味で言葉とかも突き詰めてしまうと、

様々な解釈の歪で「冗談/当てつけ/皮肉」など複雑に情報が散らばってしまう。

そういう意味でも解釈不要な発話だけをするように心がけようと思った。


ここ数年疲れて凹んでた原因はかなりそれらのど真ん中で動けなくなってたのもある。

いろいろ試行錯誤したけど、

余計な事は何もせずに勉強しつづける事も楽しいので、

それ以外はお水のように判断をせず学び続けようと思った。

特に扁桃体が活性化しない事は様々な条件の中でも中立的な思考を保てる、でも人類の歴史を眺めていると、

それをコントロールできるのはだいぶ難易度の高い事のように感じてしまう(自分の歴史も含め)。

そして自分も自分の事をそこまで信頼しなくなった、何もしてない状態でのみ信頼できる(だらんとしてる状態)。

いろいろ知っていくうちに、自分の様々な仮定は想念や観念でしか無いという事の連続だったので。


■鏡のバランス

自己認知のフィードバックの鏡として他者がいるが、他者も自分とは違った歪みがある、

しかし他者も増えればなんとなく見えてくる部分もある。

まあ単にそれだけの話だったのだろう。

特に本はさまざまな人の視点から書かれているので、

様々な違いが見えてるくる分、視点の円グラフが出来てくる。

たぶん、これらの視点を人工衛星のように張り巡らせれば、

解釈世界の疲れを半減できるのでは無いかと思った。

基軸は「自然」から離れないようにはしつつ。


■自然

軸を「自然」に設定すると、自分という生物個体も流れがあり、いつか死ぬという過程も思考に組み込まれる。

生物学的な活動時間の上限を認識するようになり、そして災害や紛争などいつ何が起きるか分からないので、

抱えきれない悩みを一度に持つ事がもたらす副作用についても、

長い目で見ればよくある失敗として並ぶだけだった。一つの想いも悩みも状況次第で形が変わる。

「悩める事が出来る時間」を考慮すると、

最も自分も誰もワクワクしないテーマから外していかなければならない、

選択できる事は限られるけど、やる事が見えてくる、という話。


いつか死ぬ、という感覚は、

他者と意見がすれ違ったりしても、特に気にならなくなり、

対立よりも意見が合わないまま調和に持っていきたくなる、

些細な争いでも、100年程度経てば両者もいなくなる。

(最終的に地球もいつか終わる、みたいなスケールになると地から離れ過ぎてるかもしれないが。)

なので、あらゆる物は自分も他者も自然も急には変われないので、

少しくらいは相手に合わせるとか、そういう最低限からスタート。安全基地という意味でも。


■脳内エミュレータと運用環境

ランダムでいろんな分野の知識を脳に入れると、

脳の中に様々なエミュレータが出来る、認識に関して我流の侵入を防げる事が出来ると体感で感じれた、

ただその入れた知に関しても数十年も経てばまた変わって行ったりもするんだろうけど、

歴史も科学も長い見で見ると様々な変容があるし。

現在の世界や過去の履歴を脳内に完全に保管するのは極めて難しい、

しかも脳内に入れた知も平穏に運用できるのは平穏な精神状態の時だ、

意識、心の状態次第では頭の中のデータは武器にも橋にも作り替えれる、

それを良く使うも悪く使うも意識や身体の状態や環境次第で歪になる事もある。

そこで自分の身体や精神にロープを巻き付けて、どこかの軸に繋いでしまおうと思った。

というわけで「自然」に軸を置いたのでした、


■続・自然

自分にとっての自然は人間も惑星も宇宙も全て含まれるこの空間そのものの事を意味してます。

つまり目の前の現実の事を指しており、この宇宙空間での現象全てが「自然」という認知になり、

同時にその概念に”神”という定義も解けていって、それらの言葉が持つ意味が「全部」になったため、

世に言われてるような特別な意味ではなくなりました。

自然を擬人化して見るか観測機器で見るか肉眼で見るかの違いで、

歴史を眺めてると、見てきた対象は同じだったけど、見方の違いで様々な分岐があったように思います、

太陽一つとっても、解釈で様々な太陽があるけど、

最終的に太陽はありのままの姿を持つ、ひとつの恒星です。

人の心は大事ですが、まず目の前の存在があります。(あたりまえ体操)


最終的には目の前の事を大切にするというだけの話しになりました、

延々たる日常の中で愚直に出来る事しか人生には積み上がらないので、本は身近であり便利でした。

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