そう思えばそうなる

 瞬発性を要求される状況を除き、

1人で膜の中で思考する際、客観視と接続してない気持ちによる記憶の探索をする事がある、

様々な記憶にはその時に感じた気持ちというのが張り付いており、

嫌な記憶は特にその時の感情を思い出すと扁桃体が活性化する。

過去の記憶なのに、その時の情動が再現される。

面白い事に、未来の事を考えてもそうなる、

しかし未来など分かるはずも無く、完全な妄想であっても不安になったりもするし、楽しくもなったりする、

不安や楽観に関係無く、その時に発生した「感情」が自分を動かす。

(例えば、キャンプしてる自分を想像して楽しそうだから行く計画を立てる等。)


嫌な事を想像したり、過去の嫌な記憶を思い出して不安な気持ちになってる状態のまま、

未来の事を考え過ぎた事がここ数年での失敗であったと今では思う。

具体的にそれらを想像すると「選択肢」として脳に記録される、

後々の自分にブリコラージュされる材料となる、だから一つしか選択肢が無かった場合はそれしか材料が無い。

先の自分がどんな状態になってるかなんて状況が決める事が多いのだから、保険として、

客観視(理性)で単に1+1=2のような計算での選択肢や、不安によって作られた選択肢と対になる選択肢を想像する。

しかし先の自分に裏切られる事もあるので、

それら複数の選択肢を持っている事を他者に伝える事で相互保険になりうる。

そしてそれはtwitterで行ったりせず、個人間で行うのが堅実かもしれないと感じた。(弱みの交換になる為)

毒も光も何もへっちゃらな状態であれば問題は無いと思うが、

あらゆる価値判断を持つ視点が入る場所では当人にとって必要だと思ってた選択肢も歪められる事もある、

まあそれも社会であるとは思うが。


「自分はこれしか思いつかないぜ」と真っ直ぐで暴走列車のような超人には必要無いのだと思う、

しかし時にはあらゆる手すりが必要な時もあり、全てはケースバイケースでありバランス、

あと、それらのシュミレーションをずっとやり過ぎると個人的にはヘトヘトになるので、

シュミレーションを支えるのは「思考をしない」時間が必要だと感じた。

(私の場合、口を閉じて何も考えずに森の中を歩く、電気消してお風呂に入る、昔見た映画をもう一度観る等)


タイトルもこじつけだし、あくまで妄想の中でそう感じた事。

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