キャンバスの中で夢を見る。

再現性の蓄積の無い分野を他と共有する事が怖くなっていた、

物差しを向けられた時に根拠となる防壁が無かったためだ、

実際、脳の境界線が吹っ飛び、何が確証があるか手探りの状態だった、

訳も分からず真実を追った結果として自然科学を学ぶ事になった、

そして日本語の言語世界が呪詛そのものに感じ始めたため、

日常的に使用される言葉の語源を一つ一つ、もう一度学ぶ事もした、

"他者と共有出来る確証のある世界"をそれらに限定する事を決意した。


自他を守る願いから来ているが、妄想/空想/夢を捨てた訳では無い、

自分のキャンバスの中であればそれは自由にしてやってもいい、

他者と共に使用するキャンバスでは他者の事も考え、使用すればいい、

消しゴムを使おうとも、リセットしたって問題が無い、自由だ。

もうちょっと簡単な比喩をすると、野球はスタジアム内でするような感じ。

でも、自然世界の中にいる時も、人々の妄執の中で挟まれている時も、

それらの内的な機能は駆動し続けている。

日本語を読み、聞く時もその機能で意思や痛みや葛藤や願いを痛覚として感じる事が出来る。


決意としては、発話/出力に関しては全てキャンバスの中に封印しようと思った、

今は分からないけど、いずれもっと他者とキャンバスを共有する時が来るかもしれない。

「死んでも筆は離しませんでした」の未来を得たい人であるならば、

キャンバスの外でも夢を共有してもいいとも思う。

でも、意思の根拠はどこにあるのだろうか?

そんなものは私の過去の出会い全てであり、足跡それ自体が根拠だと感じた。


傲慢になりたいわけでもなく、弱いからこそ境界線の外では謙虚にいるための方法だ、

でも私が境界線を持った所で、人々にはそれは見えず、

歪に変形された物差しで血を流す事もある。でもそれは私が過去他者にしてきた事だ。

因果の物語として統一したいわけではないが、その痛覚はしっかり感じなければいけない。

計算可能性に行き着く為の作業手順の一貫として必要なんだと思う。

コメント

このブログの人気の投稿

<日記> 花火の幽霊

境界線について (生活、仕事編)

泥の中の花