壬寅の慈悲




人生上、とことんギリギリまで来てる時に人に相談する事があった、
こちらから声をかけて話す事もあれば、向こうから話しかけてくる事もあった、
同級生、先生、仕事仲間、友達、
誰も彼もが口を揃えて言うパターンには類似性があり、
「キミは恵まれている」「本当の苦しみを知らない」「自分の方が大変だ」
おそらくどれも本当なのだろうと思う、比較すれば私は甘えている状態だった、
しかし、その時々の自分には励みにならなかった、
特に過酷な状態にいる人は、影を踏むかのように[厳しい]言葉を使用する、
当然、憎しみへと変換される。

でも中には[優しい]言葉をかけてくれる人もいた、
苦しみを知っていても、大変な状態であろうとも、
こちらの不安に同調する事なく、ただ優しく話をしてくれ、聞いてくれた。
しかし、それも私にとっては「苦しみ」となった。
一時的にその優しさに救われ、意識を外に向ける機会を得て、邁進したとて、
またギリギリまで堕ちる事がある、そういった時になると、
悲しい事に、優しくしてくれた人達の心のカケラが「切ない痛み」になった。
「どうしてあの時声をかけてくれたんだ」
「どうせなら放っておいてくれたほうが潔く去れた」
(さて、影を感じる場合はここで「どこまで勝手なんだ貴様!」と思うでありましょう)

憎悪も、優しさも、どちらも「苦」になった、
特に優しさは、去るには惜しい「執着」となる、苦とて、種類が若干違う、
枯れそうになっている花を粉砕する試練のようだった、
まだ水をあげれば育つ可能性があるかのように、可能世界の多様な分岐を感じた、
ただ自分にはだいぶドロドロとした根が張り巡らされていて、
それらと「混ざる」事が嫌になり、心の中から種も花も追い出す儀を行った。
去年、それらを遂行し、たしかに「軽くなった」、
だけど、執着を減らすほど地に足がつかない感覚になっていった、
苦も、快も、「道」として明確化される、
それらの執着や重りを頼りにどこを歩けばいいのかが、何となく見えていたからだ、
「どこを歩いてもいい」といった未開の地に立たされた時に、
一歩も歩けなくなった、そして歩く事の因果が照らされた時、
想像力が半径0メートルになった、
一歩でも歩けば草も踏む、虫も踏む、ダニも殺してしまう、そのような感覚に陥った、
そして生きる為に何かの生命を食べなければならない、

子供の頃に聞かされた様々な物語に、恐れを感じてる記憶の情もあるのだろう、
「今食べてるこの生命が、もし自分の番が来る事があったら」
そう思うと、どんどん何も出来なくなっていった、
でもその後で突拍子も無い想像力が働いた、
「オイオイ、ラジオネーム「人間」さんよ、私を喰っておきながら後悔するとは何様なんだ、栄養を無駄にするのか、」
永い永い時間をかけ、思考妄想から離れておきながら、
立ち直ったキッカケになったのはこういった物語思考だった、
相手はそう思ってるかは分からないし、勝手なアテレコだ。
ううむ、自分はどこまでも勝手な生き物だ、度し難い、
命の無駄は無い方がいいし、苦しみは少ないほうがいい、
ただ無駄が無い動きを知る為には、何が無駄だったのか体験する必要があった、
いや、"無駄"という言葉は違うが、だいぶここで違う意味を持つだろう、
否定/肯定 の断定的な判断が入らなくなる。
最初に書いた文で、[厳しい] [優しい] とカッコで囲ったが、
どちらも必要だったし、それに価値判断をしたのは常に私だった。

と、「ここだけは守りなさい」という最低限領域として文章を書いてみた、
ユングの「個性化とマンダラ」でいう職業人のペルソナとの同一化、
「〜自分の書いた伝記にそってしか生きられない〜」等の文脈から派生してる、
氏はそれを不幸、危険、と少し忠告的に扱っているが、
床が無ければ安心できない時もありまして。
「かりそめのロードポイント」として機能するのではないか、とも思った。

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