AI生成と身体的魔術領域

だいぶフワフワそしてざっくり纏まらず比喩を用いて書いていきます事を予め..

Minecraftというゲームが昔好きで、仕事の合間合間にやってまして、
大人数でやると開拓そして都市化し、同じような形態になるので、
少人数、小さな村で必要最低限な暮らしをしたり、
羊の毛で簡易テントを作れるようにし、遊牧的に拠点を持たず旅をしたり、
そういった楽しみ方をしてたのですが、
ある時にクリエイティブモードを使ってみた所、一時的にはとても楽しかったけど、
それ以降Minecraftをやめてしまいました、
ただ暫く時間経ったのでもう一度やってみたらまた楽しめるとは思うのですが。

話は変わり現実で、時に山に登ったり森を散策するのが結構好きなのですが、
登山ルートも、どこで昼食にするかとか、想定せず行き当たりばったりで、
あえて険しい道を選んだらそれはそれで吊り橋とかと出会ったりで面白く、
茂みから「ガサガサ」と音がして、何が住んでいるのだろうかとか空想したり。

「どこでもドア」があったら、その登山という行為は吹っ飛ぶ気がしまして、
しかし仕事の合間の昼食に絶景の景色で、とかだったら話は違うかもしれないですが、
頂上に辿り着いた時の「うっしゃー」という感覚って何なのだろうと、
スキーで言うとリフトを使うか歩くか、どっちでもいいと思いますが、
何を楽しむかの「重き」なのだろうと自分の中では感じてます。

また話は変わり..
昔自転車で走ってた道を最近は徒歩で移動したりしてまして、
そうすると全く違う発見が無限にあり、花や木、鳥の巣、喫茶店、畑の人の服のコーデ等、
特に面白かったのは謎の家具屋さん、古い物を修理して売っており、
店の人と話してみると、別の店舗もあるらしく、そこにも行ってみたら面白かったり、
どんどん迷路に入っていく感じは子供の頃の気持ちになっていきます。

googleストリートビューで見る世界と、本で感じる世界、
ある程度のディティール(映像,写真)があると、それに乗っかってしまう部分があり、
それ以上の想像が自分の場合あまり無く、そしてあまり記憶から参照できず、
木の形状にしても、実際触ったり匂いを嗅いだり、その木と共生する虫や動物、
それらと付き合った時間に比例して記憶され、
例えばその木を描く時もその全体の記憶が引き出されたりします、
身体的な記憶と、情報的な記憶、特に分離する必要も無いとは思いますが、
本で想像する世界も中々楽しく、滑稽であれ的外れであろうとも、
分からないからこそ自由な事を考える事も出来ちゃいますが、
その身体記憶と魔術的な想像が、時に足で歩き、出会い、
接続する時に何か言葉に出来ない恍惚があります。

もはや何も実証も証拠も無く気持ちだけで書いてますが、
脳も大事ですが、足の裏や心臓を含め、身体の全体性を持って「心」なのではないかと。
どうしても仕事やあるルール下においてはその事を分かっていたつもりでも離れてしまう、
頭だけになる道でも様々な重きはあるのでありましょうが、
環境要因であれ何であれ、そして何の一貫性も無い自分が言える事でないとしても、
コンパスの中心として離れてはいけない何かがあるのではないかと、
では中心とはなんぞやは言葉には出来ないし、たぶん一生分からないけど。

タイトルをあまり回収してないので最後に強引に纏めますと、
というよりもあまり触れてはならない領域として避けてはいるんですが、
仕事の中でも様々な出会いがあり、色んな人々がいますが、
基本その時の自分の「重き」に近い人が多く、かけがえのない鏡でもある気がします、
エイヤっと瞬間的ブリコラージュに重きを置く場合、
これまで書いたような「具体的な旅の出会い」が全て吹っ飛び、
具体から抽象部分だけになり、彷徨いを含めた固有性がアイロンでまっさらに、
それだけになると、たぶん、
「付き合えなくなる人」や「見えなくなる道」があるような気がします。

レゾンデートルはどの学問にしろ、中心にある訳ではなくその周囲の螺旋の中に感じ、
そして今これを書いてる自分も何か分かったかのような気になってるだけかもしれないし、
でも頭と心臓の間の詰まりというのは、そういった距離感が開いてたような気もします、

仕事の環境下でも余裕が無くなっているのは自分も日々感じておりますし、
様々な分岐が人生そのものでありますが、
「どう歩くか」に今一度、全身で意識を向けたいと思いました。

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