創作について、或いは夢。

自分はずっと手繰り寄せる状態ではなく手伝う身で学んでいる事が多いですが、
自分の企画であれ手伝ってる企画であれ、
あと一つ乗っけるだけの段階でも崩れる場面を多く見てきました、
そもそもが抽象的な話なので抽象的なままで表現していきますが、
そもそもあらゆる制約がある中で「夢を見る」のに近く、
本人がその夢を信じているからこそ、その夢の泉の中に居る事ができるし、
曖昧なガス星雲のような中で、意味が浮かび上がってくる、
それをキャッチするような仕事、キャッチといっても銀河鉄道の夜の鳥捕りとまでいかず、
ただ観測、観察して心で認知して砂浜でそれをスケッチするような感じでしょうか、

ではなぜ肝心な所で崩れたりするか、自分が感じた中で思うのは、
夢が見れなくなった、というのが直球な表現だけど、
たとえば仕事となるとディティールから根本的な変更も有りえます、
その時に夢にどうそれを受け入れるか、繋がるか、夢の泡が弾けないまま続けられるか、
本当に繊細な言葉ひとつでも泡は弾けてしまい、途中で頓挫する事もある、
ただ、仕事だから、お金の為、よくある事だとか、もう慣れたとか、
今日買った靴下の色が好みで気分が良いので柔軟に繋げる事をトライしようとか、
それで歩き続けられるのであれば、何だっていいんだけど、
繊細な夢というのは、夢を見ている本人ですら半信半疑で自信や意欲の火も小さい、
少しの風で消えてしまうような、ギリギリなロウソクの状態、

観察していて、そのバランスがうまくいってるパターンは、
夢の保護者がいる事です、それかペルソナを柔軟に使い自分で保護してるか、
一生消えない事を確信し、どんな風にも影響されないある種の超人、
保護者は、その夢を見る者と外部との「翻訳者」のような存在で、
同時に心のリズムの理解者でもある、夢とその全体の流れの中でうまく組み込む為に、
察知し、空間の隙間にパテを作り出す、それを演出と言葉で行う。

途中で崩れる例において、夢を見ながら本人が外部との翻訳を失敗した類があり、
何でもかんでも一人で担うような事が多くなってるかと思えます、
特にリモートでも、そもそも人間同士の人間的な隙間は見えないので、
テキストの場合は特に魔術領域なのでなるべく崩壊の種になるような言葉は避けたり、
情報量を、通話→ビデオ通話、に上昇させたり、様々な施策は出来ると思いますが、
まず繊細な時というのは外部とのコンタクトすら嫌がる時があり、
泡が危うい時であっても、この人だったら繋がろうと思える人だったら良いですね、
なるべくは自律的、自立的である事は大事ではあるし、
超自我や、学級委員長的に「もっと大人になりんしゃい」といくらでも言えるけど、
「結果、どうだったか」を考えると、正論では何もうまくいってない、
ダストボックスは乗り越えれないゲーム配信記録でいっぱいだ、

話は別な比喩になるけど、
学生時代、自分の成績が良かった授業というのは、先生が面白かった事にある、
先生がその学問に本当に意味を見つけてその道を信じている事だ、
ただ、仕事だからとか、何でやってるかとか、分からない奴が馬鹿だとか、
そういった態度の先生の授業の成績はとても悪かった、
言ってる事も、スジが通って、論理的で、隙間が無かったとしても、
結果的には、ただ「教えられなかった」という事になる、
それに対して論理的に生徒が悪いと言っても、「結果」は変えられない。
何でこの話を入れたかは自分でも分からないけど...

結果、うまくいくのであれば、精密な計算とかを越えた柔軟なプレイがあると感じました、
こうなればうまくいく、というのは存在してないし、過去のデータは応用が効かず、
「その"時"」をパッと「状況を見る」という能力、
誰にでもその力はあるんだと思うけど、長い経験によって曇りガラス化する事もあり、
ううむ、急な変化は出来ないのなら、やはり役割分担のバランスは大事だなぁと思います。

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