占いについて。

 -「おやおや、人生には何か意味があると、まだ信じているのかい?」(魔女/ アリーテ姫)

道に喩えると、好きに歩いてよいとなった時に何に基づいて道を選ぶのか、
実際は道なんて無く、振り返った時にしか足跡は無い、どの方向へ歩くも自由だ、
もうちょっと概念のレンズをボンヤリと致しましょう、
「何をすべきか」はある程度舗装されている、
どの学校行くか、誰と付き合うか、どんな言葉を使うかも親や周囲が形作る、
命令や指示というと言葉が強いのでこの記事では全て「占い」と表現しよう、
社会に出るまでは周囲が占い、そして「知らない事」の想像力と「意欲」がセットとなり、
ルンバのようにアルゴリズムの経験を得れる、失敗しても占い者が責任を取ってくれる、

現代で分かりやすいのはSNSではなかろうか、
どう歩くか分からない時に周りはどう歩いてるのかを見渡し、
良いところを真似る、もちろんその背景の苦は隠されているが、
「なんか良さそう」と思えて歩けるだけ良いと思う、失敗しても経験値が蓄積する、
本を読むのでも、人と会話するのでも、音楽を聴くのも、
その中で浮かび上がる「次、こうしよう」は含まれる、
うまく包摂の状態であれば半径3メートルで事足りるのだが、
具体化から逃げる影は抽象領域で夢を見る、海の向こう、遠い星、
もう何でもいいと思う、だんだんとどこを見ても同じものが宿ってると感じる、
問題は意図に応じて見える場所(認知)が変わるという事だ、
諦める意図で世界を見れば、諦め所が組み合わさり、
可能性を限定しないで世界を見れば、様々なものが見えてくる、
決めつける態度で世界を見れば、見限った産物しか見えない、

社会に出たら占いは自分で自由にできる、勿論仕事という枠組みの中では複雑だけど、
何をして、どこに行って、今日何を食べるか、そもそも何に基づいて決めるのか、
私はそもそも自分で決めていない、
過去読んだ小説や映画や会話などの景色から勝手に浮かび上がる、
または視野の中で決める時は木の枝の本数や鳥の鳴き声の方向、
何食べるかは何も考えずにスーパーに行き、その日の並んでいる野菜が視界に入ると、
自動的にメニューが組み合わさる、勿論、過去の知識からメニューが作られるのだが、
本当に何も考えないのも面白い、ゼルダでいうとモザイクがかった「微妙な料理」。

ただ、自分の場合そのような浮かび上がるブリコラージュは想像力が使える時だ、
もっと探求すれば色々な原因は出てくるのでありましょうが、
想像力が使える時と使えない時がある、波のような周期性かは分からない、深堀り中。
問題は使えない時期であり、そういった時の保険をここ数年で考えた、
占いは「ジャッジメント」や「責任」を越えたほうがいい、


というわけでサイコロ、
易についてはキチンと学んでるけど、ここではボンヤリと語る、
あらゆる選択肢をガチガチとなった脳で決めていてもしょうがない、不眠になる、
例えば何食べるか程度は適当な選択肢用意してサイコロの番号で決める等、
人生上重要そうな選択や、仕事とかはもうちょっと真面目には考えるけど、、
サイコロの方向を歩いて転んだ場合は誰のせいでもない、
「このサイコロのせいだ!」とは言えないだろう、そして振ったのは自分だが、
その手に意思はあっただろうか、どのみち自動的に振る機械にしたとて、
その機械のスイッチを入れる存在は必要になる、
この手のせいだ、意思のせいだ、とも言いづらい、どうにもくだらない、
「まあ、しゃあない」の領域に収まる。
結果良ければ「ヒャッホイ、バンバンザイだ」となる、
それで進み、紆余曲折あってもナラティブに振り返って結果良ければ良いわけで、
良くない場合も結局はこのような足跡思考の循環にいるわけであり、
シンプルにあるがままを受け入れる事が出来ればそもそもが何も必要無い、
これは心の中で「理由」という生贄を求める何者かに対する儀式のようなものだ。

抽象的に書きましたが、
一旦仕事やレール上の業に乗ったり、ある条件下でのゲーム中はその煉瓦積みの日々となり、
あまり道に迷う暇も無くなる、個人的にはそういう時間が芯から落ち着きますが、
たまに大きな選択に迫られる事もあった、過去の学問の知恵も使えない時、
出口としてサイコロをモンスターボールの一つとしてポケットに入れる事にしました。

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