コントローラー、手放しについて。
手放して全て流れに任せる場合、コントローラーでいうと◯ボタン連打だろうか?
どのみち、コミュニケーション時に発話が必要になる、
それは意識して頭の中で組み立てられている時もあれば、
過去に組まれたパターンが自動的に出てくる(再演技)のだろうか、
喋りながら同時に自分の意識の動きを観測するのは難しいが、続けてみている、
少し浮かんでくる何かの連続の一連に対して感じたのは、
浮かんでくる様々な事に対して感情に基づいて自動的にパズルにしようとする動きだ、
別にそれで上手く行っていれば何の問題もない、けど毎回失敗してると薄々気づいてる事もある。
ゆっくりと観測していると、隙間が発生する、シュミレーションゲームでいうと選択肢だ、
コントローラー手放しであれば自動選択「A,これまで通り」
しかし浮かぶ様々や、パズルを組み合わせようとする動きに対して「B,拒否権」が出現する、
拒否権は自分の自動的な動きに待ったをかけて違うパターンを模索する事だ、
超自我というか理性や知恵という言葉のほうがしっくりは来るけど同じ事だろうか、
強い抑圧や否定のような感じで封殺する事はおおかた上手くいかなかった、
振り子の原理だと思える、だからその新しい選択肢は、感情も勿論入れど、
感情との折り合いを見つけつつも新しく枝を生やすようなものだろうか、
手放し、すべて◯ボタン連打で上手くいく環境経路があればそれでいいし、
同じルーティーンを続けても安穏であれば、それは大変良い事だ、
そしてランダムな環境であろうが、手放しでいけるのはそもそも人格成長がされてるように感じる、ちなみに私は大変未熟な半熟卵だと自負している。
衝突は、多分なんとなくいつも感じるのは論理的な言葉や鋭い真実だけではなく、
その時の感情がほとんど無意識的に伝達され、後で思い返す時に言葉でなく(表情/態度/肯定/否定/)が記憶のフォルダの表紙になっている事が多いからじゃないかと思う、
喋った内容ではなく情緒状態が記憶に引っ付いてる。
うまくいかないやり方を哲学的ゾンビの状態で◯ボタン連打で同じ穴に落ちる事がある、
私は大抵、鬱状態の時にそのアルゴリズムに陥る、コントローラーの◯ボタンにセロテープが貼られ、コントローラーを持っていた意識がどっか消えてるような状態だ、
なんでそうなったかすら意識出来ない、立ち直った後でようやくループに気づく。
色々書いているけど、総論的に思う事であり、全てはケースバイケースだけど、
「だろうか、だろうか、かもしれない、」という曖昧のまま掘っていって、
先入観ではない限りにおいて、そして推理の領域でもない結論無き総論は許して欲しい。