神が宿らない世界で

純粋な安穏や、些細な喜怒哀楽であれ、 物事という時系列も始まらず、そして終わらず、
鎖化していない定説の輪の周囲に佇めば、瞬間での限りない自由が存在した。
それらは無意識的であれ、余計な知識が無かったが故に記憶や知識を組み合わせない。
素粒子は未来を確定せず、確定せぬまま身軽であれば、その時々に智慧も働く。
では仏教で説かれる「像法」を、原因と結果を確定的に思案した状態で建築的に歩めど、
的を射ってから弓を放つのでない限り、結果は常に予想通りには行かない。
この時代、智慧が宿ろうにも最初から拒絶してる状態が続いてるように見受けられる。
身体が乾いてる、雨が降る、雨を浴びれば潤うが、傘をさす。
”こうすればこうなる”の範囲は、恐らく一般的には些細でしかなく、忘れ去られていく。

「日本昔ばなし」など、童話の構造は、
最初に何も考えずに困っている生命に善行をした人がお返しを享受する、
そして「いじわるおじいさん、いじわるおばあさん」的な人物がそれを真似る(像法)、
あまりに作為的である為に、そして事足りているため、そこは隙間が存在しない。
そして最初から「見返り」を自我で組み立てていた為に、叶わねば逆上する。
それらのプロセスが「計画的で確定的」であり、クォンタムの隙間とは無縁だ。
ある湖の周囲に動物達が暮らしている森で、換気で湖の水が減ればみんな困る、
その時に梵天が雨を降らせば、みんな助かるし感謝して梵天に社(やしろ)を造るかもしれない。
しかし十分に雨も降っている時に、その湖に余計に雨を振らせては氾濫してしまい、
動物達も困る事になるかもしれない、むしろ「疫神」として鎮魂するための社になる。

智慧は、その時々の状況に応じて「現実的」に現れ、そして必要な組み合わせだ。
そして故意に大きく現象の流れを変えてしまい、湖に雨が降らなくなってしまってから、
いくら社を建てて雨乞いをした所で、因果は直ぐには調伏できない。
手を加えなければ純粋な因果を結ぶ現象に関しては、妄想ではなく自然法則だ。
魔術を経由しようが、現実的で(真に)科学的な理解であろうが、
最終的に、同時に始まりの地の事を指していて、
そして体得する道は今からだって遅くはない。

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