瞑想とか、溢れた気力の注意点とか。

要するに、グラデーションあれど無意識が意識化する事だ、
仏教では無意識的である状態を「無明」とも言いましょう。
深い瞑想でも、照らされる部分、領域には大小あり、
人によっては何も問題なく日常と共存するだろうけど、
何か強い後悔とか持ってる場合に懺悔の影になるやもしれない。
人によるとしか言えない。

懺悔の念は客体による受容を求める、
一昔前なら神に対してやっていただろうけど、
人間信仰の今は人間相手が良いだろう、
AIはやめておけ、自閉的な道だ。

近くにちゃんとしたお坊さんがいる寺があるとか、
自我が柔らかい先生がいる心療所や、
あまり全てを気にしてない友達、
商店街に普通にいる賢者、
または森や川や海など、良き自然環境。

しかし、自我が柔らかく、あまり全てを気にしない人に、影は近づきにくい。
「もっと気にしろや」を求めるからだ。
むしろ自我が薄い人は、自然に近い存在なのだ。
影は同一化を求めるので、似たような人と集合しやすい。
しかし自己嫌悪性を持つ場合、鏡とうまくやれないので対消滅が定説だ。
その中でもしっかりコミュニケーションを続ければ、アオサギのように解に近づく。

さて、滞留が減り、元気になったらなったで、本当にそうかな?
という部分もあるだろう、しっかりと棄てきれない自我を保つ場合、
または照らされたと思い込んでるのがほんの一部に過ぎないなど、
やはり未完了を保持しているため、反作用を持つ気持ちになるかもしれない。
とはいえ、完璧な風となった人というのも珍しい。
意外と其々の周囲にもいるんだけどね、「つまんない」だろう。
つまんなくてOK、気が詰まってないからさ。

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