役割の外側について

会社だと忘年会、いわゆるハレな時、
家族だと一緒に共通して楽しめるスポーツやゲームをしてる時、などだろうか。
でもそれ以外の時間は役割があるし、役割が無かったら相対的な保管はない。
本質的に役割の外側は、誰も居ない虚空のようだけど、出発点でもある。
様々な場の組み合わせ次第ではユングの元型じゃないけど、どれかに成っていく。
2人だけだと自己/シャドウ、光/闇、男役/女役、の鏡になりやすい、
丁度良く広げ進めなければ「老賢人」まで出てこない。
そしてグレートマザー向いてないのに引き受けてる人もいる。

向いてない仮面もやっていくうちに慣れてくる事がある、
しかし出発点から程遠いと、役割だけになり、仮面だけの表れになりうる。
それで安定するならそれも良いし、それをむしろ楽しんでロールプレイする人もいる。
周りを心地よい流れにするために進んで、しかも楽しんでやってる菩薩サーファー、
ううむ、お賽銭箱どこですか。

この前久しぶりにMRIに入った、
瞑想の水平性とは違い、全てと関係無いような時空感覚だった、
現実的には患者と医者や機械との関係性の中であるけど、
精神的には、役割が今この瞬間完全に存在しない状態であると感じた、
仮面が存在しない安楽。でも何も無い。

10分ちょいだけど、それ以上だったら窮屈だろう。
前に手術した後、1ヶ月くらいベッドから動けず、
麻酔の影響か1分が1年みたいな妙な時空の歪みの中に居た時は、
役割がむしろあるだけでも有り難い、どんな役割だってやってみたいと思った。
やりたいけど機能できない役割と、やりたくないけど出来ちゃう役割、
その中間あたりの模索、楽しいのは苦しみがあるからで、
苦しんでいる時は誰かが楽しめている、それが楽しみと感じる事もある。

真夏の中華料理屋で、1階の厨房では汗かきながら中華鍋を振るう料理人がいる、
2階の席ではお客さんが冷房が効いてる中、涼しく美味しく料理を食べている。
それがその店主の喜びである事は、保管された組み合わせなのだ。

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