近況とか

もう何年からか前か忘れたけど、ずっと色んな人の悩みを聞くというのをしてた、
言語以前に欲とか色んなのが混じってるし、本質的に望む事というのも普遍的だ、
そんな重大的な願いでもない、シンプルっちゃシンプルな、「生存」とでも言おうか。
そしてそれらをぶち壊すのが自我(エゴ)である。とても全てに共通したシステムだ。
私は個人的人生の問題を何も解決も出来ていないし、出来ないまま未練が積み重なる。
自分がクリア出来てないうちに人に対して何も言えたものではない、
ただ宿題のみが積み重なり、重さを得た。

いよいよ、その重さの上限が突破し、日常言語的な比較を用いた原理では掴めない。
というよりも言語で理路を敷き、機械のように基板を構築できるという発想が違ったのだ。
最終的には「エネルギー」のようなものがあり、それは気功とかヨーガで扱えるし、
日常なら作務から始まり、今日に至る多彩な文化の中でそれらを包括できる。
それは装飾ある精神の橋(サイコポンプ)から始まり、
社会というのはやっぱりそれら多彩さのコラボレーションだ、得難い。

私は今、最低限の、そして常識的な責任の部類は周囲の人間に委託を進めている。
意図的に死ぬ気は無いけど、いつそうなってもいいように環境を敷いている。
生前、瀬戸内寂聴さんが胆嚢を摘出してた事を知って少し親近感が沸いた。

このブログは他者との最後の接点にしたかったけど、
そろそろ私は構造体構成員(インフラ・エンジニア)に戻りたい、
つまりいつもやってる作務だ、正直、あらゆるインフラは同じ事だ、
そしてそれは自分で誇るのも気持ちが悪い、インフラの装飾は最後の痕跡に過ぎない。
日常と精神(プシュケ)は並列できる、いや、むしろ分離するのが無理がある。
念が宿らなくなった世界はいよいよ終わりだ、それは植木鉢一つの育て方から、
料理から、建物、本、音楽、ありとあらゆる事に宿り、時空間を超越する。
それらの全てがインフラであり、エンジニアリングでありバラエティだ。

生身の身体も否定するもんじゃない、あるものだ、
一切の比較という差別を廃するべきだ、装飾は文化的自由であり、
それも精神(プシュケ)とのうまい並列の産物だ。
ただの五感機能であれ、面倒くさい事が凝縮する社(ヤシロ)でもあり、
地に足つけるのはこの器(ツール)しか無い。

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