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天才が居た話

ある劇場での出来事、 劇場を管理する方が扉で客の入場と退場を管理し、上映中は端に座っている状況だ。 しかし上映が終わっても電気は付かず、扉も開かない、どうやら寝てるらしい。 客全体はそれを把握し、お互いを「ウーム」と確認し合う、最終的に誰かが管理者を起こさなければならない。 そんな時、ある客がパチパチと拍手を初めた、それを機にみんな拍手を始める。 その拍手によって管理者は目覚め、無事出口は開いた。 ああ、なるほどと関心した。 「すいません、終わりましたよ」と声をかけてしまったら、寝てしまっていた事を本人が受け止めなければならない。 客が勝手に出ていっても、その方は次の入場の案内をしなければならない、 拍手によって目覚めさせるのは管理者からすれば上映が丁度終わったという認識で目覚め、何事も無かったかのように事を進める事が出来る。 選択肢型シュミレーションゲームの中でも最も永劫回帰の最善他ならないと感じた。誰も恥として残らない。そして最もスムーズであり、状況的違和感も無い。 一休さんじゃないけど、こういう知恵とユーモアが咄嗟に出てくるセンスに感動した。 そして自分はまだまだ修行が足りないと学ばせて頂きました。

盡人事待天命

 盡人事待天命 人事を尽くして天命を待つ やりたい事とかやるべき事とか仕事とか願い事とか切実な何かとか色々あるけど、 それをいろいろ動いたり交渉したりしてやってく中で、結果までは制御できないわけだ、 そこのズレというのが苦しみを作ったりしちゃうんだね、期待と違うとか。 いろいろやるプロセスはまあそれなりに自分の気持ちがちゃんと乗るくらいでやってみて、そして結果まで確実な予想はしないってのが大事なんだね。 どっち転ぶか分からないし、結果が出るのが10年後20年後かもしれないし、 その時になったら別の気持ちになってる事もあるし、 まあ旅の者よ、そう急がれるなって諺(ことわざ)だな。

身体再生ラフ日記 夏編「身体と言語」

「ラフ日記」なので後で冬編など飛ばした部分も書く予定ー  半年かかっても別にいいや、くらいの気持ちであれば1日10分程度の 「体操」 でも効果はあったらしい、そして徐々にのため、分かりやすい変化も無ければ、「よっしゃ嬉しい」といった気持ちも起こらない。 たぶん、過度にやり急激に疲れてしまう場合、入口として毎日の習慣に入りにくかった。 起きた時は丁度固くなってるし、寝る前はゆるめるのに役立つ。 そして日々色々とバタバタしてる中でも習慣には入りやすいし、0分と10分では違う。 さて、「体操」という言葉を使ったけど、定義的には「医療」も「スポーツ」も「美」も色々入ってる、其々の人生の横幅のあるラベルなので人によっては様々なイメージがありそう。 私はまずは「ラジオ体操」が想起される、夏休みの中の学校で毎日参加してた人達はめちゃくちゃ活気あった。弓道部の人達は精神と身体と全体を読む精妙な道のように感じる、ラジオ体操的「体操」という言語のイメージからは少し離れそうではある。このように先入観のイメージの破片が入口に散らばっている。 自転車始めた時も言語的なマニュアルと実際が噛み合うまでに時間がかかった、たぶんどの分野でも言葉というイメージが人によって違うために身体化のプロセス(紆余曲折)がある。 分かったと思って分かってなかったという繰り返しの中で、先入観へ使うエネルギーの浪費が身体の動きを意識できてない事を観察できる。足の小指を意識する瞬間というのはテーブルの角に足をぶつけた時くらいだった。痛さを代償として足の小指という新たな出会いを知る。どうせなら痛くもなく学んでいきたい所。 夏は交感神経側へ傾きやすい、しかし動きやすい為、バランスを観るにも大事な時間だ。 歩いていて汗が出てたり身体に不快な状態を感じても、ただ足や風などに意識を戻す事ができる。 と、いうような時間を10分程度から。

Noteに日記を以降してます

個人的な日記や記録はテキストプラットフォームのNoteの方に以降してます、   https://note.com/rapparu こちらのブログ(blogger)はもうちょっと抽象的な物語形式にしたく、 個人的な雑記は別で欲しいなと思いました、 noteは今はあまりフォロー返したりとかは出来ない状態ではありますが、よしなに。 引き続きこちらでも更新はしていく予定ですが、今は物理的な筋力トレーニングの日々なのでしばらく文章はお休みする感じになるかもしれません。ではでは。

役割の外側について

会社だと忘年会、いわゆるハレな時、 家族だと一緒に共通して楽しめるスポーツやゲームをしてる時、などだろうか。 でもそれ以外の時間は役割があるし、役割が無かったら相対的な保管はない。 本質的に役割の外側は、誰も居ない虚空のようだけど、出発点でもある。 様々な場の組み合わせ次第ではユングの元型じゃないけど、どれかに成っていく。 2人だけだと自己/シャドウ、光/闇、男役/女役、の鏡になりやすい、 丁度良く広げ進めなければ「老賢人」まで出てこない。 そしてグレートマザー向いてないのに引き受けてる人もいる。 向いてない仮面もやっていくうちに慣れてくる事がある、 しかし出発点から程遠いと、役割だけになり、仮面だけの表れになりうる。 それで安定するならそれも良いし、それをむしろ楽しんでロールプレイする人もいる。 周りを心地よい流れにするために進んで、しかも楽しんでやってる菩薩サーファー、 ううむ、お賽銭箱どこですか。 この前久しぶりにMRIに入った、 瞑想の水平性とは違い、全てと関係無いような時空感覚だった、 現実的には患者と医者や機械との関係性の中であるけど、 精神的には、役割が今この瞬間完全に存在しない状態であると感じた、 仮面が存在しない安楽。でも何も無い。 10分ちょいだけど、それ以上だったら窮屈だろう。 前に手術した後、1ヶ月くらいベッドから動けず、 麻酔の影響か1分が1年みたいな妙な時空の歪みの中に居た時は、 役割がむしろあるだけでも有り難い、どんな役割だってやってみたいと思った。 やりたいけど機能できない役割と、やりたくないけど出来ちゃう役割、 その中間あたりの模索、楽しいのは苦しみがあるからで、 苦しんでいる時は誰かが楽しめている、それが楽しみと感じる事もある。 真夏の中華料理屋で、1階の厨房では汗かきながら中華鍋を振るう料理人がいる、 2階の席ではお客さんが冷房が効いてる中、涼しく美味しく料理を食べている。 それがその店主の喜びである事は、保管された組み合わせなのだ。

心的危機に論理は適応しない事もある

 では欲を満たせば癒やしがあるかというと、よく分からない、 ドツボにハマっていくだけな事も多い、 個人的な癒やしを越えた全体的な因果と、その上でより良くしていく可能性を確信し、 反作用なき階段が見えた時は、様々な事を乗り越える事ができる力も出る時もある。 寒い冬、温泉は温かい、一旦は身体は温まる、 でもいつかは出なければならない、 けど凍えている時は、温まる事で癒やしを得られる、 本当はその間で、自ら発熱できる力がある事を見つけられたらいいんだけど。 身体そのものが自由に歩ける温泉のように。

集合的無意識について

今の生命宇宙、地球に限定して感じてみれば、 純粋からするとだいぶ奇妙であり、終局とも言えないバグとも見受けられる、 2001年宇宙の旅で言えば、HALとの勝敗とかいう次元ですらも無さそうだ。 地獄の存在意義があるとすれば、「ここには意味がない」と分かる材料しかない。 続けるのであれば、まだマシな段階があると魂レベルでの理解と納得を得られる。 しかし全ては生命の原因と結果であり、それ自体の賛美や否定といった地点も終わってる。 未来はパラレルであって、今の業から未来を断定する占いは、その占う者の割愛が介入してしまう。 しかし放置すれば無意識の泥として顕現するマリオネットになるならば、 まだ明瞭な占いによって善き使命体になった方が良いようにも思う。 無意識の世界の中に、波の影響を受けず冷静に観察すれば、 もはや何をしても、特に巻き戻ったり、善き流れに変わる期待も出来ないだろう。 しかし、その中で一向に慈悲を体現し、灯台となり、 そして出口を案内する人達を見てきた、 本当に頭が上がらない。ありがとうという気持ちで一杯だ。 明かりを他者に要求しても、火は灯らない、 ロウソクが消えている場合、誰かの火が必要になる、 自分から火を起こすしかない、これはラジャス、ピッタの比喩ではなく、 「意識的」である事を言ってる。 ヨガは身体を意識的にしていく、意識化すればコントロールができる、 瞑想の身体の観察も同じ流れだと感じるが、どのみち感じれるのは身体しかない、 聞こえてくる音も自分の身体であり、見える光も自分の身体だ、 その先は、善き師が居てこそだろうと思う。 集合的無意識は、シャレにならないし甘くない。