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心的危機に論理は適応しない事もある

 では欲を満たせば癒やしがあるかというと、よく分からない、 ドツボにハマっていくだけな事も多い、 個人的な癒やしを越えた全体的な因果と、その上でより良くしていく可能性を確信し、 反作用なき階段が見えた時は、様々な事を乗り越える事ができる力も出る時もある。 寒い冬、温泉は温かい、一旦は身体は温まる、 でもいつかは出なければならない、 けど凍えている時は、温まる事で癒やしを得られる、 本当はその間で、自ら発熱できる力がある事を見つけられたらいいんだけど。 身体そのものが自由に歩ける温泉のように。

集合的無意識について

今の生命宇宙、地球に限定して感じてみれば、 純粋からするとだいぶ奇妙であり、終局とも言えないバグとも見受けられる、 2001年宇宙の旅で言えば、HALとの勝敗とかいう次元ですらも無さそうだ。 地獄の存在意義があるとすれば、「ここには意味がない」と分かる材料しかない。 続けるのであれば、まだマシな段階があると魂レベルでの理解と納得を得られる。 しかし全ては生命の原因と結果であり、それ自体の賛美や否定といった地点も終わってる。 未来はパラレルであって、今の業から未来を断定する占いは、その占う者の割愛が介入してしまう。 しかし放置すれば無意識の泥として顕現するマリオネットになるならば、 まだ明瞭な占いによって善き使命体になった方が良いようにも思う。 無意識の世界の中に、波の影響を受けず冷静に観察すれば、 もはや何をしても、特に巻き戻ったり、善き流れに変わる期待も出来ないだろう。 しかし、その中で一向に慈悲を体現し、灯台となり、 そして出口を案内する人達を見てきた、 本当に頭が上がらない。ありがとうという気持ちで一杯だ。 明かりを他者に要求しても、火は灯らない、 ロウソクが消えている場合、誰かの火が必要になる、 自分から火を起こすしかない、これはラジャス、ピッタの比喩ではなく、 「意識的」である事を言ってる。 ヨガは身体を意識的にしていく、意識化すればコントロールができる、 瞑想の身体の観察も同じ流れだと感じるが、どのみち感じれるのは身体しかない、 聞こえてくる音も自分の身体であり、見える光も自分の身体だ、 その先は、善き師が居てこそだろうと思う。 集合的無意識は、シャレにならないし甘くない。

瞑想とか、溢れた気力の注意点とか。

要するに、グラデーションあれど無意識が意識化する事だ、 仏教では無意識的である状態を「無明」とも言いましょう。 深い瞑想でも、照らされる部分、領域には大小あり、 人によっては何も問題なく日常と共存するだろうけど、 何か強い後悔とか持ってる場合に懺悔の影になるやもしれない。 人によるとしか言えない。 懺悔の念は客体による受容を求める、 一昔前なら神に対してやっていただろうけど、 人間信仰の今は人間相手が良いだろう、 AIはやめておけ、自閉的な道だ。 近くにちゃんとしたお坊さんがいる寺があるとか、 自我が柔らかい先生がいる心療所や、 あまり全てを気にしてない友達、 商店街に普通にいる賢者、 または森や川や海など、良き自然環境。 しかし、自我が柔らかく、あまり全てを気にしない人に、影は近づきにくい。 「もっと気にしろや」を求めるからだ。 むしろ自我が薄い人は、自然に近い存在なのだ。 影は同一化を求めるので、似たような人と集合しやすい。 しかし自己嫌悪性を持つ場合、鏡とうまくやれないので対消滅が定説だ。 その中でもしっかりコミュニケーションを続ければ、アオサギのように解に近づく。 さて、滞留が減り、元気になったらなったで、本当にそうかな? という部分もあるだろう、しっかりと棄てきれない自我を保つ場合、 または照らされたと思い込んでるのがほんの一部に過ぎないなど、 やはり未完了を保持しているため、反作用を持つ気持ちになるかもしれない。 とはいえ、完璧な風となった人というのも珍しい。 意外と其々の周囲にもいるんだけどね、「つまんない」だろう。 つまんなくてOK、気が詰まってないからさ。

心身健康の全体性について

これをやったら良くなるとか、これを食べたら健康になるとか、 それら全て一部ではあるけど、例えば健康的な食事をしてたとしても、 ずっと椅子から動かないとか、イライラしてたり不安になってたりしてても仕方ない。 もちろん、全体的に善きバランスである事が最善だが、 まだカップラーメンやファーストフードを食べてても破茶滅茶に心が元気で動き回り、 現実の人々と明るくコミュニケーションを取り、 自我の妄想を越えた善き気づきで周囲に元気を与えてる方が大事であろう。 ある精神科医の先生はあちこち動き回り広く仕事と活動をされておられるが、 その先生は溜まったストレスをお酒やタバコを嗜む事でバランスを取っている。 完璧を目指し挫折するよりも、まずベターであり、それなりに活発で元気な事が大事だ。 いくら医学や科学的な知識を左脳に貯めようが、実践が無かったらただの記憶のデータだ。 身体を維持してるのは心だ、心が柔軟で元気でさえあれば冬であれ夏であれ動きやすい。 このサプリを飲んだり、この健康法をやってたとしても、 100あるパズルピースの2つだけキラキラと綺麗で、残り98個が汚れてる事だってある。 机にかじりつきであろうが、超集中状態で楽しく喜びで心が回転してれば、 多少猫背になろうがいくらかカバーできよう。 結局はどう生きるか、何をするのか、何を大事し、其々が満足するかだ。 さて、ここから個人的な話になるが、ワタシは数年前はロードバイクに乗っていた、 風邪やインフルエンザとも無縁で、冬でも身体も心も元気だった、 内臓の手術はしたが、それは生まれつきの疾患が発動したもので、 あと事前の連続的なストレスも凄かった、でも考え直す期間として大事だった。 パンデミックもあり家にいる事が多くなり、自転車の習慣も消えた、 同時に、あきらかに免疫や精神も衰退し始めたのを感じたので、 手軽に初められるものとしてヨガと太極拳を選んでみた、 ヨガを真面目にやってみると身体のあらゆる部分が固くなってる事も分かったし、 相当に全身の筋肉、神経、そして心を使う。 心の動きと身体の動きが全然噛み合っておらず、これまで無意識的であった事も分かった。 ヨガとは少し離れるが、タイの僧侶、ルアンポー・ティアン師が初められた 「チャルーン・サティ」というヴィパッサナー瞑想法がある、 手や腕の動きを使うシンプルなものだが、雑念が湧...

神が宿らない世界で

純粋な安穏や、些細な喜怒哀楽であれ、 物事という時系列も始まらず、そして終わらず、 鎖化していない定説の輪の周囲に佇めば、瞬間での限りない自由が存在した。 それらは無意識的であれ、余計な知識が無かったが故に記憶や知識を組み合わせない。 素粒子は未来を確定せず、確定せぬまま身軽であれば、その時々に智慧も働く。 では仏教で説かれる「像法」を、原因と結果を確定的に思案した状態で建築的に歩めど、 的を射ってから弓を放つのでない限り、結果は常に予想通りには行かない。 この時代、智慧が宿ろうにも最初から拒絶してる状態が続いてるように見受けられる。 身体が乾いてる、雨が降る、雨を浴びれば潤うが、傘をさす。 ”こうすればこうなる”の範囲は、恐らく一般的には些細でしかなく、忘れ去られていく。 「日本昔ばなし」など、童話の構造は、 最初に何も考えずに困っている生命に善行をした人がお返しを享受する、 そして「いじわるおじいさん、いじわるおばあさん」的な人物がそれを真似る(像法)、 あまりに作為的である為に、そして事足りているため、そこは隙間が存在しない。 そして最初から「見返り」を自我で組み立てていた為に、叶わねば逆上する。 それらのプロセスが「計画的で確定的」であり、クォンタムの隙間とは無縁だ。 ある湖の周囲に動物達が暮らしている森で、換気で湖の水が減ればみんな困る、 その時に梵天が雨を降らせば、みんな助かるし感謝して梵天に社(やしろ)を造るかもしれない。 しかし十分に雨も降っている時に、その湖に余計に雨を振らせては氾濫してしまい、 動物達も困る事になるかもしれない、むしろ「疫神」として鎮魂するための社になる。 智慧は、その時々の状況に応じて「現実的」に現れ、そして必要な組み合わせだ。 そして故意に大きく現象の流れを変えてしまい、湖に雨が降らなくなってしまってから、 いくら社を建てて雨乞いをした所で、因果は直ぐには調伏できない。 手を加えなければ純粋な因果を結ぶ現象に関しては、妄想ではなく自然法則だ。 魔術を経由しようが、現実的で(真に)科学的な理解であろうが、 最終的に、同時に始まりの地の事を指していて、 そして体得する道は今からだって遅くはない。

エネルギーについて

 ちょこちょこと人と会う機会が増えて、同時に観察もしていると、 人によって様々に精神的な力が違う、電球や恒星の比喩にすると分かりやすいけど、 とにかく腹の底から力があり、そしてそれを制御して他者の為に使ってる人もいて、 大抵、そういう人は会社でも人を束ねたり周りの感情コントロールに気を使う。 そもそも根底のそのエネルギーは、趣味から得てる人もいれば、食から得てる人、 自発的に沸かない為に活発で元気な友達の近くにいる事でそれを得ている人、 信念体系、自我のアルゴリズムで発電している人もいる。 その逆に、信念体系のアルゴリズムの種類によってコンセントが抜けている事もある。 河童の頭の皿の上に別な何かを置くことで、水が溜まらなくなるような感じだ。 そして仮想上のアルゴリズムで皿を無限に増やしてる人もいる。 というか、何を思えど、どのみち信念体系のマトリョーシカに組み込まれる。 全てが机上の空論である事を知っている自在な視野を持つ人には関係ない話だけど。 とはいえ自在のように見える素人が、他者の発電機(信念体系)をスポッと抜いてしまい、 ガラガラパシャンで前より酷くなってるケースもよくある。 無為の押し付けがうまく行くパターンはちゃんと信頼関係や尊敬がある前提で、 論理的に、科学的に正しいからといってうまくいくとは限らない。 発電効率が悪くても、そのアルゴリズムに愛着を持つ場合、 内発的、自発的、主体的にそれらを変える方が、強引による失敗よりもスムーズな時もある。 マトリックスという映画でも、「やっぱり前の世界の方が良いわ」という人物もいる。 矢を抜くような時は、直截ではなく自然排出されるような何かがあるはずだ、 矢を抜くはずがそのプロセスそのものが第二の矢となっては本末転倒だ。 そして、あるロール下においては、その時はその編成である事でしかしょうがない時もある。 その場合は、いずれ出口がある事を客観する何かヒントで十分であろう。 その瞬間のやり方が定言命法化され全体適応されてしまうと、 回路でも神経でも血管でも、ここではこっちに曲がって栄養を送らなくてはならない時も、 決まった方向だけに栄養が行き、栄養が不足してる部分が壊死してしまう。 物質的には身体の姿勢の癖で、足が痺れたりしても感覚で足を組み替えたりして、 血流のバランスを取りやすいけど、心、特に無意識はどう...

想像とか空想とか妄想について

 例えばベッドに寝そべり、天井を眺めていたら黒い点に気づいたとする、 その時は風邪をひいており、それに近づき確認する気力も無い。 そして虫が苦手だったとすると、それは「未確認な不安領域」となる。 さて、 それに対して「やっぱり虫じゃなかろうか」「もし落ちてきたら」と思ってみよう、 すると「若干」前に進んでいるような動きが生ずる事がある。 でも大事なのは「未確定」な事にある、 既に知っている天井のシミであればそれは機能しない、何も動かない、 そして動く必要もない。 ここで反転させてみよう、さっきは「虫が苦手」な設定だったけど、 「虫が大好き」であったら機能は同じだけど、気持ちが逆だ。 「ゆっくりしていってね」の気持ちから動き出すかもしれない。 この2つの例をコマを分けて想像してみよう、 ハラハラ不安になってる人と、ほんわか楽しんでる人、使ってる力は同じ。 この認識作用は天井に限らず全てにおいて機能する。 そもそも複雑系なのでグラデーションほどのものではないけど、 対象を科学的に、ありのままに見る場合は感情を切らねばならない、 天井の虫の例だと「苦手」や「好き」が認識にプラスαを加えてしまっている。 苦手だったら「虫じゃない」と思えばいいかといったらそうでもなく、 それらのプロセス自体が天井の黒い点に対して集中を起こしている。 「虫かも....」で苦しんでる場合は手助けしたほうがいいかもしれないけど、 「虫かも♡」で楽しんでる場合は、別にそのままでいいんじゃないかと思う。 その後「嗚呼、虫じゃなかった...」でガッカリするかもしれないけど、 虫が苦手で苦しんでた人なら「虫じゃなかった♡」とホッとするだろう。 苦と楽、楽と苦の順番が違うだけ。 不安や安心は精神的な波長のようなもので他者にも影響してしまう、 おおかた妄想とラベリングされるのは虫が苦手で不安なイメージを作る場合だ、 後者の楽しんでる場合は空想といっていいだろう、誰も困らない。 「A」と思えばAの文字がイメージされ、「スイカ」と思えばスイカがイメージされる。 「妖怪マグロ人参」と言われてすぐイメージできる人はこの力が十分にある。 自動か意思か、何に使うか、それだけの話し。 これを書く前、双子座流星群を見ようと1時間寝そべり、 ついでに星をぼーっと見ていた、たまに人工衛星が横断していくが、 人工衛星に「あ...